井華赤平の馬書児さんの証言(1)

『二戦掳日中国労工口述史』には、井華赤平(炭鉱)に連行された中国人10人の証言が掲載されています(「掳」はさらうの意)。そのうち本人の名前もしくは証言者があげている隊長名やいっしょに連行された人の名前が企業が作成した名簿と一致している場合に限れば、これまで紹介してきた4人ということになります。今回紹介する馬書児mǎ shū rさんの場合は、 名簿の234番「馬鎖児mǎ suǒ r」とかなり近く、彼が日本で亡くなったとしてあげている「更伍zhāng gèng wǔ」は、名簿の189番「庚五zhāng gēng wǔ25 新楽県三舗児村 45年2月21日死亡」ではないかと考えられます。100パーセント断定できるわけではありませんが、同一人物の可能性が高いと考え、ここで紹介します。

 

馬書児さんは、新楽県承安鎮三里鋪の出身。1944年の陰暦725日夜、日本軍に捕まって、正定書院に連れて行かれ、八路軍かどうか尋問された。十数日たって石家荘東兵営に連れて行かれ、そこで20数日過ごした。日本兵は、日本で労工にするため塘沽に護送した。出発間際青い服、毛布1枚、掛け布団1枚が支給された。数日後、貨物船に乗せられた。船底には石炭が積まれており、中国人は甲板で過ごした。船での食事は、中国人が自分で作って食べたが、トウモロコシの粉でつくったたべものが1回1個だった。船で一人死んだ。死因は分からないが、日本人は石炭の塊二つを腰に縛り、海のなかに投げ込んだ。88晩航海し、下関に着いた。それから、44晩汽車は走り、船に乗り換え、また1日かかって北海道の赤平炭鉱に着いた。一坑と二坑で働いた。私達を引率したのは2人の日本人で、一人は山下と言い、もう一人は坂本と言った。二人は南兵営からずっと日本まで私達を護送してきた。