井華赤平の田世珍さん(3)

 

中華寮で1年余り過ごして、日本の投降に至った。私達はようやく労働をやめた。日本が投降したすぐは、私達は決して知らず、日本人も私達に知らせなかった。ただ私たちを働かせることはなく、また私達の服を脱がせ、蒸した。数日感、私達は家の中でぶらぶらしていたが、外出はできなかった。私達とても変に思った。間もなく、アメリカ人が私達のところにきた。私達はそれでようやく日本が投降したことを知った。

 

日本の投降後、私達の生活はよくなった。私達はまた日本人にいくつか要求した。最初、日本人は私達に服を出さなかった。そこでみんなは警備室へ警備員を捕まえに行った。3日間彼を監禁し、服を寄越さないと出られないようにした。とうとう彼らは全員にひとそろいの服と毛布1枚支給することに同意させた。

 

私は194511月帰国した。帰国前、日本人は私に少しお金(当時23斗のトウモロコシの値段に相当する)を出した。私達は下関で米国の蒸気船に乗って帰国した。いっしょに帰国したのは2百数人だ。帰国する時、私は1つの骨箱をことづかって帰った。私達の故郷城東橋の1人の仲間の骨灰だ。

 

(何海、刘力楠2001715日走访, 李爱军整理)

 

 “2、3斗のトウモロコシが買えるくらいのお金”はどういう名目で渡されたものだったのでしょうか。

 「昭和19年度華人労務者給与規定要綱」(次官会議報告)では、「移入」中国人の給与は日給5円と定めています。田世珍さんは、病気で働けなくなったということはなかったようなので、300数十日は働いたと考えられます。少なく見積もって300日働いたとして1500円は受け取る権利があったでしょう。当時の貨幣価値を現在の価値に直すとどれくらいになるのかよく分かりませんが、「1日5円」というのは、日本人、朝鮮人の労働者の給与と比べて高い額です。 “2、3斗のトウモロコシが買えるくらいのお金”がいくらなのかもよくわかりませんが、せいぜい半月程度の食糧代くらいでしょうか。とても給与とよべるものではなく、中国についたときの交通費くらいの意味だったのでは? 

 西成田豊『中国人強制連行』はこの賃金支払いについて「送還間際の賃金・積立金支払いは、あわよくば賃金・積立金未払いでことを済ませようとする事業場側の思惑であったと考えられる」と分析しています。しかし、そもそも連行企業は中国人個々人と契約を交わしておらず、1日いくらの給料だと説明したこともありませんので、給与支払いの意思が企業にあったことを前提に議論することが理解できません。むしろ支給されたお金の名目がなんであるのかきちんと説明できないような、その場しのぎの金だったのではないでしょうか。