井華赤平の田世珍さん(1)

井華赤平事業所で強制労働をさせられた233番の田世珍さんが日本に連行された経緯はこうでした。

 

1944年の陰暦8月7日(新暦9月23日)朝、鍬を担いで畑に水をやりに行った。途中日本兵に遭遇して捕まり、石門警官局第1分所に引っ張られた。第1分所に3日止められ、毎日尋問された。村では全部で50数人が引っ張られた。そのあと、南兵営に連行され、陰暦の10月末、塘沽に送られた。そこは埠頭で、周りは製塩場だった。淡水がなくて、天津から水を運んできたが、日本人は私達に水を飲ませなかった。彼らが私達に配給する食べ物は、凍って歯が立たないトウモロコシの粉の餅で、1度にひとつで、一日に3個だった。喉が渇き我慢できないので、私達は日本人が顔を洗ったり、入浴したりしたあとの水を飲んだ。そこでの1ヶ月余、1日中部屋に監禁された。之貴と辛景喜の2人はここで病死した。

田世珍さんは、ただの農民で野良仕事に出かける途中につかまってそのまま日本に連行されました。もちろん日本で働いてお金をえようなどと考えていたわけでもありません。

 

日本に行く貨物船の船倉には石炭が積まれていて、石炭の上ですごした。船では、用を足すとき、船べりの木の板に立って用をたさなければならない。1人の労工が大便をする時、うっかり海に落ちた。日本人は彼を助け上げるため、救命ボートを下ろした。9日間の航海中に私は病気になり、ご飯が食べられなかった。仲間が白菜の切れ端をこっそり手に入れ私に食べさせた。船上で人が死ぬと、たいてい昼間に処理された。晩に死ぬと、翌日の昼間に海に投げ入れた。死んだ日の翌日朝、日本人は私達を甲板に集めた。労工の死体は海に投げ込む前、むしろを巻いて縄で縛った。それから労工たちに黙祷をさせ、最後は船の警笛を鳴らし、死体を海に投げ込んだ。

 

企業が華北労工協会と結んだ契約の人数は300人で塘沽で乗船したのは287人。13人が減っています。『資料 中国人強制連行』は、「事業場側説明によれば、この13名のうち2名は塘沽収容所内で死亡(本名簿に有)、11名は病気のため乗船不能として乗船連行しなかった」とあります(死亡診断書はありません)。船中での死亡は3人で、水葬にしたと記載されています。田証言の「日本人は私達を甲板に集めた。労工の死体は海に投げ込む前、むしろを巻いて縄で縛った。それから労工たちに黙祷をさせ、最後は船の警笛を鳴らし、死体を海に投げ込んだ」と符合します。日本に着いてから事業場に行くまでの列車のなかで1人が死んでいます。事業場での死亡は42人。事業場側は「遺骨送還」を証言しておらず、「火葬場に地蔵仏6基ありその下に残骨があるらしい」という話もあって、状況が判明せず、調査が必要と慰霊実行委員会はまとめています。(調査が進展した形跡はないようです)