井華赤平の何洛柱さん証言(5)

私たちの隊の炊事係が厨房でマントウをつくりに行ったときに、新聞紙に包んで持ち帰ってきた。炊事班の班長は毎日新聞を新しいものと取り替えた。ある時、私達は新聞に書かれているのを見た。 "……平和的解決"。それでようやく日本が降伏したことを知った。日本は投降した直後もまだ私たちを働かせた。それから後、働かなくてよくなった。日本人たちはわれわれを管理する勇気がない。その上いつも米国の飛行機は私たちに缶詰、服、靴などの物資を投下した。さらにスローガンが書かれているのを見た。"平和的解決"と書かれていて、投降とは言っていない。

私たちは日本人の芝居を見たが、朝鮮人も見ていた。朝鮮人は日本人が歌うのを許さなかったが、私たちは歌わせた。それで双方にらみあい、とっくみあい寸前だった。私は言った。「私たちはみな日本人を殴るが、君たちを殴ることはしない」。そのあと、2人の朝鮮人は私たちが守り、彼らを殴ろうとする中国人がいたら私たちがとめた。翌日、2人の朝鮮人は私たちにお礼を言いに会いにきた。

(注:『赤平80年史』の「1022日の事件は、日本人の演劇があった際朝鮮人が妨害、日本人に同情した華明寮の華人労務者が集団で朝鮮人を襲撃衝突した事件である」と記述している事件と同一ではないだろうか。『警察史』では、1022日の事件について赤間鉱関係で、日本の警察は100名を出動させたとしている。)

私たちは1年余、2年足らず日本で過ごした。日本が投降して3、4カ月留まった。当時私たちの体重は、みな4、50斤しかない。それでこの3、4カ月で私たちは太ったといえる。私たちは一度連れだって外出したが、近在で、遠くにはいかなかった。日本人は私たちをみてシナの大君と呼んでいた。

それから私たちは汽車にのり東京に行き、アメリカの艦船にのった。

(甄国田、何海、李爱军2002721日走访, 李爱军整理)