井華赤平の何洛柱さん証言(1)

何洛柱が日本に連行されるまで

 

 井華赤平300番何洛柱さんは、河北省徐水県西劉営村出身です。前回紹介した河北省徐水県南留村の劉玉庚さんの隣村の人です。何さんは、1943年、区の幹部の王松林に派遣されて1区の区事務所に行く途中、特務と日本兵に取り囲まれ、捕虜になりました。このとき31人が捕虜となり、漕河駅の日本の事務所に連れて行かれました。何さんは、次のように証言しています。

 

 漕河駅の日本の事務所から徐水駅に移されたあと、石家荘の南兵営に連れて行かれた。石家荘南兵営の小さい建物に収容された。糞尿が垂れ流され、部屋の中はとてもひどいにおいがした。数日してやっとやや広い部屋に移った。逃走を考えたが、監視は大変厳しく、有刺鉄線と通電網が張り巡らされていた。有刺鉄線と通電網の間にはとても深く大きな溝があったので、逃亡することは不可能だった。

 南兵営では毎日、死者がでた。病気で死ぬもの、飢えで死ぬもの。死んだら車で運び出され、土に埋められた。南兵営に留置されている間に身体検査もされた。ガラス棒を肛門に差し、検便をした。そのあと、各人に小さい掛け布団を支給した。写真を撮ったが、日本の北海道に行ってもらうと言っていた。南兵営でしばらく過ごして日本軍は私たちを塘沽に護送した。

ここでは夜、寝るとき服をきることを許されなかった。衣服は日本人が回収して持って行き、夜が明けてから衣服を返した。船は8日8晩航海して、九州に着いた。九州でわれわれを監視した日本人のリーダーは坂本といい、彼は中国人に比較的ましな接し方をし、ほかの日本人に「中国人を殴るな。かれらは自分からすすんできたのではない、不本意ながら家を離れたんだ」と言っていた。中国人に対しては「大東亜が勝利するまで待て。そうしたらきっと国に帰れる」と言っていた。私は心の中でこう思った。「おまえらの勝利を待ったら、われわれは帰れなくなる!」