井華赤平の劉玉庚さんの証言(3)

 井華赤平の劉玉庚さんの証言の続きです。

 

 主な食べものは、豆の粉と小豆の粉でつくった小さい渦巻き状のマントー(蒸したパン)で、一日3度出た。春になってから、たまに魚のスープを飲むことがあった。食事も住むところもひどい。住居は木造の長屋で、1つの小隊が大広間で一緒に寝た。板の間で、床に稲わらを敷いた。掛け布団もなく、ただ1枚の薄い毛布が支給されただけだ。そればかりか、床の下の地面には水がたまっていて、家の中はたいへん湿っぽく、みんなはひどい疥癬に悩まされた。

 仕事中、仕事をなまけたり、もたもたしていると、日本人は殴り、ののしった。そのため、私達は日本人になぐられないように見張りを立てて休憩した。私達は昼夜の区別もなく、春夏秋冬の区別もなく働いた。冬になり、北海道は氷と雪に覆われた。雪が降っても仕事をしなくてはならず、宿舎から作業場までけっこう距離があり、日本人は私達を率いて現場までいった。仕事が終わってふたたび日本人は私達を宿舎に連れて帰った。その道中は、寒くて耐えがたい。私達は薄い毛布を腰に巻いて仕事に行き、帰って来て、その毛布をかぶって寝た。

 坑内での仕事はとても危険で、事故がよく起こった。ある時、私達の隊が作業をしているとき、3人のうえに石が落下してきた。さらにもう一度は、私達の村の1人の若者が坑内で働いていて、崩れて落ちてきた石が鉱灯に当たった。幸いなことに身をかわすことができた。かわせなかったら、いったいどうなっていただろう。このようないろいろの苦難にあうので、3人が逃亡した。2人は捕まって宿舎に連れ戻された。もう1人は日本が降伏した後、大隊を探し当てていっしょに帰国した。

 郷里が恋しく、空腹で、病気やケガに苦しみ、そのうえに日本の親方の虐待で、労工の死者は絶えなかった。死者はすべて馬車で運んで、火葬した。日本に着いた時には4大隊で400人だったが、帰国する時には200人だけが残った。