井華赤平の劉玉庚さんの証言(2)

【赤平の炭鉱での労働のようす 劉玉庚さんの証言】

 炭鉱についてすぐは、坑内に入って仕事をすることはなく、日本語を学習した。学んだのは、工具の名前など仕事に必要な言葉だった。いまも覚えているのは中国語の"鉄鍬"で、日本語では"スコップ"と言っていた(回想録では「四各布」と表記している)。同時に、改めて隊の編成をし、3つの大隊に分け、さらに6つの小隊に分けた。私は、第1小隊に属した。小隊長は王根.で、河北省深県の人である。

 その後、私たちは坑内に入り仕事をさせられた。ハッパをかけるための穴をあけたり、石炭を掘ったり、石炭を積み込んだりした。さらに機械の制御もした。1日12時間働き、2交代だった。もし割り当てられた仕事が終わらなければ、終わるまで交代できなかった。交代の班がこないときには、仕事が完了しても引き揚げることはできなかった。

 私がやっていたおもな作業は、空気ドリルで穴をあけることだった。作業中に腕をけがした。とてもひどいけがで、日本人の医者は板で固定した。それで1カ月余り休んだ。坑内に入って仕事をしないので、食事の量は減らされた。体の具合が悪いうえに、食べるものも少しで、泣きっ面にハチだ。治療もされないので、骨がずれ、手が伸ばせず、難儀した。祖国に帰って、いまに至るも重労働ができない。トロッコを引いて石炭を運び出す労工は、1日に12台分の石炭を運ぶのがノルマで、1回運ぶと札が一つ渡された。いくつ札を渡されたかでどれだけ石炭を運んだかということになり、ノルマを果たすまで仕事を止めることができない。