井華赤平の劉玉庚さんの証言(1)

 「赤平合衆国」と形容されるほど、朝鮮人・中国人強制連行が多かった赤平市。そのうちの一つが、「井華(住友)赤平」です。そこで働かされた劉玉庚という人の証言を紹介したいと思います。

 

  「井華赤平46番」の劉玉庚さんのプロフィールと日本に来るまでを、本人証言を要約します。

 河北省徐水県南留村出身で、19歳で連行された。日本にいた時は劉玉剛と呼ばれていた。現在77歳。村の民兵だった1944年春、日本人が村に来て「掃討」をおこなった。特務の道案内で村を包囲し、一軒一軒しらみつぶしに若い男を探した。村では28人の青壮年が捕まった。漕河駅に連行され、そのあと徐水県の憲兵隊に送られた。翌日、石家荘の南兵営に連れて行かれた。

南兵営では、コウリャン飯が1日2回だされた。茶碗一杯でスープは小さいお椀に一杯だった。労働もさせられ、あるときは土を掘り、あるときはレンガ状に固めた石炭を背負った。多くの人が苦しみながら、次々に死んでいった。死体は服をはぎ取られ、南兵営の外に大八車で運び出された。埋葬された土地の周辺には骨が散乱した。そのあたりの野犬は人の肉を食い、目は赤く、人を見たら食いつこうとした。しばらくして、身体検査があり、合格した者は、塘沽に連れていかれ、そこから日本に行く船に乗せられた。船に乗る前に逃亡した者がいたが、すぐに捕まり、もう逃げないと言うまで殴られ続けた。船では腹いっぱい食べられず、多くのものが船酔いした。そのうえ昼も夜も揺れ、体の弱い人は持たなかった。10日航海し、亡くなったものは10人を下回らない。死んだものはござで巻かれ、海に投げ込まれた。

 

(注)民兵とは、村の自衛のためにつくった組織で、軍事訓練も少し受けているが、ほとんどの者は銃の使い方も知らなかったようだ。「連行された中国人の名簿」には、同じ村の被連行者に「27番苑雨緑」「202番李文元」「281番高国華」「500番何洛柱」がいる。「中国人殉難者名簿」では、赤平に来るまでに塘沽収容所で2名死亡、船中で3名死亡(水葬)、列車内で1名が死亡している。