「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(12)

赤平市史』の平岸油化工場に関する解明は、続きます。

 

十八、十九年にかけて、平岸の農村地区に巨大な工場建設計画が急速に進められたが、北海道炭素工業と日本油化工業は、その系列は一体のもので、すべて日本油化工業が主体となって進められたものであり、これらを集約して、その関係や状況を記載する。

(1)両工場共に軍需工場として、それぞれ十八、十九、二十年にかけて事業を進めたが、炭素と油化の関係を、まとめておく。

十七年頃から、場所の選定に入った炭素は、当時は、すべて油化名義で進められた。炭素の社名が付されたのは、十八年九月、会社設立が決定し、工場建設に着手する時期であった。それまでに採用された者は油化の社員であったし、ピッチコークスの技術取得養成も、川崎にある油化の工場に派遣されていた。また、二つの会社名は、適宜に使い分けされており、特に国(軍)からの物資、資材の供給などは、有利になる油化の名義を使っていた。

一方、会社の役員組織をみても、社長は一人(兼務)で、それぞれ担当者は、炭素と油化に分かれて配置されていたことからも、本質は同一会社であったことは明らかである。

次に、両工場共に軍需工場として位置付けされていたことを裏付けるものとしては、十八年に公布された軍需会社法によって、全国の工場が、それぞれ軍需会社として指定を受けている。

第一次指定は、十九年一月に一五〇社が指定された。この中には、「昭和電工」「北海道人造石油(滝川)」が入っている。第二次指定は、十九年四月に四二四社が指定された。この中には「日本油化」のほか、道内各炭鉱(住友、太平洋、北力、雄別、三菱、三井、明治)などが入っている。第二次追加指定は、十九年十二月に一〇九社指定されている。

この中に「北海道炭素工業」は入っていないが、これは「日本油化」あるいは共同出資している「昭和電工」の中に含まれているとみることができる。これを裏付けるものは、炭素は、地元では「愛国八三工場」と呼ばれており、この番号は軍需工場の指定番号に間違いない。一方、油化は、地元では知られていないが、二十年五月一日付の土地売買契約書に、「愛国三九一工場」が、契約上の正式名義として表示されている(二十年三月二十五日付の同じ売買契約では、油化の名義となっているので、少なくとも、四月から五月にかけて、三九一号の指定があったと想定できる)ことからも、指定工場であることは明らかである。併せて、炭素は、前記の通り、戦時金融金庫の融資も受けているし、元社員の聴取によると、炭素は陸軍、油化は海軍の管轄で、当時武官が配属されていたということである。

(2)炭素は、十八年秋から工場及び付帯施設(研究棟、住宅、寮、倉庫他)の建設に取りかかり、十九年秋に一部試験運転なども行ったが、本格操業に入らず終戦を迎えた。

また、油化は、十九年秋から二十年春にかけて、土地の買収作業に入っているが、終戦までは、いくばくの期間もなく、作業らしいことは、二八線の南六号線沿い(現南本通り)に、ノールス炉一五基分の基礎工事(現在も残っている―平松清治所有地内)と九〇坪の倉庫が二棟建設されたことと、平岸駅から岐線を構築するため、掘割工事が地崎組によって行われていた(平岸駅から東側三〇線辺りまで延ばし、そのあと南六号線へ向けてカーブしながら、道路に沿って、炭素の岐線―二八線付近―と結び、循環させる計画を進めていた)程度で、油化は全く工場建設準備中に終戦となり、名実共に、幻の工場となった。

(3)その他、関係者の聞取りによる状況をまとめる。

① 工場全体の写真(撮影年月不明)は三六八頁に掲載。

②  二十年頃、両工場の作業に係わった労働者は、一日およそ八〇〇人前後である。炭素の従業員は、約二〇〇人前後であった。炭素工場の建設工事は、十八年十一月から十九年九月まで完成させる予定だったが、かなり延びて、二十年の春までかかったらしい。労働力としては、一般のほか、中国軍の捕虜もかなり使役されており、また、学徒動員としては滝川、旭川中学、室蘭高等工業専門学校(現室蘭工業大学)などの生徒が充てられた。(このほか、深川、帯広中も動員されたという説もある。)

③ 炭素工場の建設については、木田組、中山組が建築、江口組、阿部組が鉄骨、電気工事、地崎組が土木を受け持った。

④ 二八線の平岸神社付近に診療所が設置されたが、その後病院を建設する計画で、二七線の国道沿い(現宮崎武宅付近)に基礎工事を行い、棟上げの作業まで行われたが、実現せず基礎だけは現存している。

⑤ 土木工事には、中国軍の捕虜が多数使役された(人数は不明)。また、その中国軍の収容寮は、平岸二九線(現平松諄宅)の周辺に二棟あった(一説には、芦別との境界付近の沢に、「華人の沢」と称されるあたりに、寮があった)。

⑥  両会社の役員体制(年次は不明、十九年から二十年春頃)

社 長 千葉 一二郎(本社・生産責任者) 

総指揮 士口川 退蔵(油化の責任者)

工場長 岡崎  某 

″次長 宮川 寅雄 

総務課長   棟方  進

 資材課長   服部  某

 炭素土建課長 岡田 鴻記

 油化土建課長 川崎 義克

″次長 鈴木 麟三(炭素の責任者)

 研究室長   細井  某

診療所長   羽田 早苗

なお、二十年五月頃に、油化工場長に吉田耕が就任している。

⑦ 社宅は、主に国道より空知川寄りの土地(現新光町)で、記憶としては、六戸建が二〇棟前後、四戸建が四五棟、二戸建が三〇四〇棟あった。屋根はレンガ瓦を多く使っていた(芦別の川崎、風間談)。

⑧ 芦別の料理店(きりん、三ヶ月、じゅらくなど)が戦時中、企業統制令で廃業した建物を、会社が買収して独身寮とした。(割烹四軒、旅館一軒)

そのため、毎日汽車で平岸まで通勤したので、当時の平岸駅は、何百人の乗降数で賑わった(芦別の川崎、風間談)。

⑨ 写真〈上棟式〉は、研究棟である(平松清治談)。

二十年八月の終戦によって、この軍需工場の役割は終わった。

戦後処理は、北海道炭素工業平岸工場の名義で、これらの施設、資材、技術を生かして、各部門で平和産業へと切り換えていった。