「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(9)

 

赤平市史』は、平岸油化工場について詳しく叙述しています。

 

十七年頃、軍需省の命令で、日本油化工業(本社東一示、工場川崎)は、油化工業生産責任者である千葉三郎代議士を中心に、アルミ製練用の純度の高いピッチコークスの製造工場の計画を進めたが、東京周辺では、土地や原料となる石炭を大量に生産、輸送することは難しいと判断し、目を付けたのは、土地も豊富であり、石炭産出地も多い北海道の空知地方であった。その中で、特に赤平の石炭が適していることから、赤平での工場建設を考えた。最初は、共和、幌岡周辺(元の幌岡信号所駅付近)を選定し作業を進めたが、農地(水田)をつぶすことは、食糧不足の時局に好ましくないという考え方もあって断念し、平岸地区に目を向けたのである。

 

平岸を選定した理由については、赤平市内の石炭の利用がしやすいこと、平岸駅には、十八年に企業整備令により廃鉱となった大谷沢炭砿、豊田炭砿の岐線(石炭積込線)が利用可能なこと、地盤が良く工事がしやすかったことなどが挙げられている。

 

そして、十八年九月に、北海道炭素工業株式会社が設立された。資本金は一〇〇〇万円で、そのうち各一〇〇万円を、日本油化と昭和電工が出資し、残り八〇〇万円は国家資本、つまり戦時金融金庫の支出によってまかなわれている。このことは、本工場が国策軍需会社であることを証明している。