「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(8)

 

Ⅳ 平岸油化工場に関する資料

 

『あかびらふるさと文庫』に戻ります。

 

平岸油化工場建設のための土地買収の経緯や中国人の強制労働について地主だった伊藤与作氏(平岸曙町)の回想録が収載されています。平岸駅から工場の敷地に引き込み線を設置する工事がおこなわれましたが、この工事を地崎組が請け負い、愛知県の飛行場滑走路拡張工事んい使っていた中国人を赤平に移動させ、この工事に投入しました。

 

 

 

平岸での出来事と八十路回顧~石炭油化工場跡に戦争の愚かさを見て

 

国家総動員とか、銃後の守りとか、一億総火の玉となってとかそのかけ声もすさまじいもので、赤平から「赤平号」などという飛行機を一機寄付しようという運動が盛り上っていて、大小十指は数えた赤平地区の炭鉱は特に軍需とは直結して採炭、採炭に明け暮れていたが、それはひとつには炭素工場を、もうひとつは石炭油化工場をという動きが急を要して来て、各地で人石、すなわち人造石油工場が開設されて、滝川に、留萌にと赤平からも勤労動員があったほどで、その頃は油一滴は血の一滴というほど貴重なものになっていたんだね。

 

私の農地は愛国八三工場というものの設置のため、海軍省の指導下で買収されることになって

 

「私は父から農地は手離すなという教えを守らなければならないので、どうしても離せません。作物をつくるために肥えた土にしたんですからね、工場を建てる訳にはいかんのですよ。」

 

と何度も断ったんだが、村長までが私の説得にやって来た。

 

「これは国のためなんだよ。何とか手離してくれないか。」

 

と説得されたが、私は頑として断り続けたが、最後は一緒に買収される人達までが説得にやって来る始末でね。

 

日本油化工業株式会社と言っても海軍の工場みたいなもので「農地など一般の評価額の四倍から五倍にするから……」って言って来て、私がいくら「お金の問題ではないんだ」と言っても分ってもらえなかったね。

 

結局は買収に応ずることになり、十八年のことだったと思うが、工場の建設が地崎組の手で始められたが、この時の労働者には中国人、私らは華人と呼んでいたがね、彼らも相当多く含まれていて、突貫工事に一役を買っていたようだね。

 

平岸にこの油化工場を持って来た理由は、昭和電工豊里砿の石炭が油化原料に適していたこととか、平岸駅には企業整理になった大谷沢と平岸の二つの炭鉱の側線が設置されていて、そのまま使用出来たことなどが考えられるが、とにかく連日、連日地元や旭川の中学、遠くは室蘭高専などの学徒動員で五百人から七百人もの労働者が完全操業に向けて建設にわっていたが、その油が飛行機などの燃料になる前に戦争が終ってしまって、この愛国八三工場という海軍省の胆入りの工場は幻のものとなってしまったんだよ。

 

それこそ、売却した私らも何のために売却したのやら、何のためにあの高い煙突を建てたのやらって気がぬけてしまったが、買収の条件として、その後は平和産業に供するということだったから、何かそういう工場になるのかとも思っていたが、コークス煉炭などの製造を細々と続けた後、たしか二十五年に操業が中止されてしまったね。」