「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(3)

強制労働で亡くなった中国人・朝鮮人を供養した赤平市宝性寺のお庫裏さんは、「あかびらふるさと文庫」で次のように語っています。

 

◎宝性寺とともに七十余年 この目で見てきた出来事(美園町 黒川カヲリ)

タコ労働者が線路の下に埋められたとかの話もあるようですが、お寺には、それら犠牲者のものでしょうが、明治末期から大正初期のお骨が一時は三〇〇体もありました。

明治時代の古いものは四斗樽に入れて保管していますが、きれいなお骨ですよ。

仏になった方々の名はあるのですが、引取り手のないお骨が百七、八十体もあります。

どういうことなのでしょうか。

戦時中、炭砿などで亡くなられた朝鮮人労働者のお骨は戦後、全て国に帰ったのですが、このように帰りたくとも帰れないお骨も供養しなければならなかったわけです。

その後、灌漑溝の工事が昭和の初めまで行なわれており、中赤平(現・住吉)の方にお寺の畑がありましたので、そこで耕していた時、タコ労働者のリンチを受けている声が聞こえました。とても、聞いておれず、思わず耳をふさいだことがありました。

あのようにして亡くなった労働者も、当時はいたんだということが実感としてありますね。

(略)

お寺ですから、いろいろな方のご供養をしてまいりましたが、戦時中には炭砿の仕事をされていた川口組さんの労働者もかなり亡くなっているはずです。

日本人労働者のことですが、亡くなられた方を担架にのせて火葬場に向う時、担架から足が出ているのを何度も見ました。

哀れな姿ですよ。寺ではお骨になってから、御布施を五十円いただいて供養したものです。

身内や引取り手が遠くの場合、川口組さんが簡単な葬儀を行なう事がありまして、そういう時は、亡くなった方の供養と申しますよりは、どこかから調達してきた家畜か何かの焼肉を食べたりしていましたね。

私に「砂糖と醤油少しばかりないか。」などと聞きましたので何をするのか判りました。

戦時中、炭破労働者の間にずいぶんと「発疹チフス」という伝染病が流行しまして、特に環境の悪い寮に住んでいた華人(注・中国人)の労働者が犠牲になったようです。

ご供養するのが私たちの仕事ですが、流行性の病気だけに、正直なところ嫌だと思いました。

北炭赤間砿の人たちは、お葬式のまんじゅうをきれいに作ったものですが、食料不足になってからは、澱粉カスなどでお団子を作ったのではないでしょうか。

食料不足は終戦直前には極度のもので、労働者のほとんどが、副食など無く、ただ穀物を混ぜたご飯とおつゆだけだったはずです。

山森大工さんが、道路に小便、大便をするのを見て、便を見たら何を食べているか判ると言ったのを憶えていますよ。労働者は皆が、栄養失調でしたから病気への抵抗力もなかったものでしょう。

とにかく、ずいぶん「発疹チフス」では、お亡くなりになりましたね。お寺の過去帖は、その後、何度も道庁に持っていかれています。