「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(2)

Ⅱ 『あかびらふるさと文庫』

およそ5000人にも上る米英の捕虜、強制連行の中国人と朝鮮人による強制労働というのは、ちょっと他の自治体にはみられないのではないでしょうか。福岡にはあるかもしませんが。ともかく、強制連行被害者となんらかのかかわりをもった市民も多いはずです。

1985年から赤平市は、戦争体験の手記集を「あかびらふるさと文庫」として発行しました(全10巻)。そこには、中国人強制連行にふれた手記も数編あります。

 

◎「ヤマの安全を願って四十余年 二度の崩落事故で知った生命の尊さ」(字赤平 成沢務)

昭和十六年といえば、「日米開戦」の年でしたが、この年の正月には、河原田元内相が来村し石炭増産への講演をしたぐらいでしたから、政府も必死だった訳ですよ。

この年から終戦の年まで、増産を一大スローガンに掲げ、働く人達への「かけ声」と共に、増産が国からの「至上命令」でもあり、各炭砿は全て「軍需工場」に指定され、出炭量を維持、拡大するため、労働時間も実働で十五時間前後から二十時間にも及び、極めて厳しいものになって来ました。

終戦の前年である、昭和十九年までは、なんとか出炭量を増やしながらやって来ましたが、敗戦の色濃くなった、二十年には、これから詳しく話をするさまざまな事情で、前年の半分近くまでも減産してしまった訳です。

この年は、私も職員にさせてもらって間もなくでしたが、兵隊にとられまして、何ヶ月かの期聞は、ヤマを離れた訳です。

どんどんと若い働き手が戦争にとられ、各ヤマも一部の係員を除けば、年老いた砿内員が目立つようになった頃、若い労働力の穴埋めとして、大陸から「中国人」「朝鮮人」労働者を日本のヤマに送り込むようになったんです。

初めのうちは、通常の募集の形態であったため、これらの人達は積極的に参加したようですが、終戦頃には日本の国内事情も悪くなってきたこともあり、参加者が年々減ってきたとのことです。

それでも道内では、約四万人からの外国人労働者が働くようになり、この赤平市だけでも戦局が悪化した頃の記録では、約四千五百人にも達したと聞いています。

そして、終戦を迎える頃には、砿内員の半数以上が、慣れないヤマの仕事に従事している中国、朝鮮人の外国勢というありさまで、他の炭砿と違い、当時としては比較的に歴史の浅かった赤平砿は、日本人労働者も他町村からの移住者が多かったせいもあり、外から眺めると特殊な集団であり、人呼んで「赤平合衆国」となった訳です。

(略)

このように複雑な要因が相関をもって、採炭を非能率的にした訳ですが、その中にあって労働者達の寮は、どこのヤマでも病棟の感じで、粗末な食事で、その日その日を食いつないでいた訳ですから、いくらがんばったからといっても、能率の上る状態ではなかったし、事実、二十年の二月のことですが、当時のヤマに雇われていた、中国人労働者の実態調査を行なった巡査が「発疹チフス」にかかっていた中国人労働者から感染して殉職したぐらいですから、どこも環境改善ができなかったのでしょうね。

労働条件と生活環境の改善をめぐり、中国人、朝鮮人労働者の相つぐ、抗議や山猫ストライキ、それを抑止するため、各地から警察官が大勢して応援にやって来る事が続き、中には逃避もあり、あの頃は、極めて不安定な労働力と、いつ暴動が起きるか判らない状況でしたね。彼等にとっては、生活を維持する最低限度の環境と待遇を要求していたんだと思うんです。

つまり、抗議をすれば、良くなるかもしれない、しかし、このままの生活を続けていれば病気になるかもしれないという、とても不安な追いつめられた状況だったと思うんです。事実、この赤平の炭砿だけでも、何百人もの外国人労働者が殉難死していることからも、その生活の厳しさは、想像に値すると思うんです。

今の人達は、それらの歴史を、赤平公園の、「黎明の像」によって語り継ぐしかない訳ですが、殉難死として合祀された、それらの人達の中には、苦しきに耐え切れず、自ら生命を断った十数名にも及ぶ「自殺者」がいたことを忘れてはならないですね。

赤間の炭砿などは、朝鮮人の病死者十一名に対し、自殺者十一名という記録が残っているんですからねえ。戦争の勝敗による非支配者の末路、その哀れさは、この数字を聞いただけでも、理解できると思うんです。

何故に、この異郷の地で、自らの生命を、自らの手で絶つ必要があったか、生の苦よりも、死の楽を選んだ人々の、どんなにか無念であったか、それは私達には想像しか出来ないんですが、今はただ、合掌するのみですね。

 

<中国人労働者の実態調査を行なった巡査が「発疹チフス」にかかっていた中国人労働者から感染して殉職した>という事件が起きるほど、被連行中国人の環境は悲惨だったのでしょう。<人呼んで「赤平合衆国」となった>ということばが、赤平の状況を端的にいいあてていると思います。

強制労働で亡くなった中国人・朝鮮人を供養した宝性寺のお庫裏さんは、次のように語っています。