「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(1)

Ⅰ 赤平市における戦中の朝鮮人・中国人労働者数

  北海道赤平市は道内1、2を争う炭鉱の町で、大きな炭鉱としては、赤間、茂尻、住友、豊里の四つがありました。1944年から45年にかけて、日本人労働者の大半が徴兵され、その労働不足を補うために朝鮮人・中国人が連行されてきましたが、そのさまは「赤平合衆国」と言われるほど、赤平における外国人労働者数の比重は大きくなりました。「赤平市史」は次のように叙述しています。

「北海道炭鉱統計資料」から全貌をとらえてみる。

  一表は、昭和十八年六月から二十年七月末までの事業所別外国人労働者数である。

  これによると十八年六月に、二三四一人であったが、二十年七月では、四四九四人となっている。このほか、連行の時期は不明であるが、日中友好協会北海道支部調(一表の「その他(中国人)」参照)によると、事業所以外の組関係及び土木事業に従事していた(平岸・油化工業)中国人労働者が、二十年七月現在で、実数で八七一人おり、合計すると、実数で五三六七人が赤平市内に連行されていたことになる。

  一方、『北海道警察史』二巻(昭和四十三年十二月刊)には、赤平在住中国人移入状況(二表=略)が示されている。これによると、二十年三月現在で、 一一九五人となっているが、前記資料における各事業所別数とは相違している。いずれにしても、一〇〇〇人以上の中国人が在住したことは間違いないと思われる。