地崎伊屯武華事業所に連行された中国人(7)

武万華も張兆林と同じように、中国人たちの「反抗」について語っています。

 

 労工たちは腹いっぱい食べることができず、歩く気力すらなかった。労工たちは監視の目を盗んで仕事の手を抜き反抗した。監視が見ている時は働くが、背を向けたら休んだ。一つの木の根を一つの班が一日かかっても掘り出すことができないこともあり、日本人たちもどうしようもなかった。

 

 中国人らは「反抗」闘争をおこなうのだという気持ちは強かったでしょう。しかし、同時に、この話は、鞭を振り上げられても病気や飢えで体が動かないほど極限に近い状況であったことも伝えています。「オホーツク民衆史講座と中国人強制連行」で見た「北海道のイトムカ鉱山の華労は、花岡鉱山の華労よりも食糧が不足であるが能率が良い」という「華人取扱に関し内務省官吏が花岡鉱山及鹿島組に対する指示事項」を思い出させます。

 

労工は病気になると登録し、衛生員が診療所へ連れて行った。下痢の症状があれば飢餓療法と称して食事をさせず、幾日もしないうちに飢えと病気で死に至った。結核に罹れば死ぬほかない。死ぬと火葬され、遺骨だけが残った。帰国する時、遺骨を持ちかえり、天津に置いた。

脱走した労務者もいたが、逃げていっても草の根や木の皮すら食べられず、最後はやはり捕まり、殴り殺されたり強制的に労働させられたりし、さらに悲惨なことになった。

 

地崎組伊屯武華に連行された人たちの証言は、まだほかにも得られていますが、今回は、以上の二人の証言だけにしておきます。