地崎伊屯武華事業所に連行された中国人(3)

張兆林証言の紹介を続けます。

 

仕事始めにあたって駆け足、訓話、掲揚、唱歌があった。訓話の内容は、東亜新秩序の建設、中日親善、東亜の永久和平の保持だった。歌詞は、「旭日旗があがり、光ぼうと輝き、揚子江のほとりに金竜が翻る。月は明るく照らしいく久しく、富士山はおごそかに輝く」というもので、要するに中日は肉親のように互いに助け合って祖国の危急を救おうというものだった。

 

ここでいう「仕事始め」は、日本に来て最初の2週間ほどの「教育期間」を言っているものと受け取っています。それから、歌を覚えさせられたといっていますが、歌詞の内容からすると「興亜建設隊隊歌」という歌のようです。ほかの事業所に連行された中国人の証言にもほぼ同じ内容の歌がありました。

 

しかし、日本人の本心は誰でも知っている。私達は毎日しかたなく日本のものを学ばなければならず、そうでなければひどい目に遭う。

 春の終わり、初夏の気温は氷点下5度前後で、労工は綿入れを着て働くのが当たり前だが、ここでは腹いっぱい食うことができず、服もぼろぼろで肌がむき出しになっていて、当然ながら労働効率も高くならない。日本人はわれわれの作業が緩慢なことを嫌い、上着を脱ぎ、肩をさらして働くように命じた。力を出せば寒くない! このような扱いを受け、われわれ300人のうち、たえず4、50人が病棟に入った。病棟にいるときはさらに飯の量が少なくなった。

 

 「労工(ロオコウ)」はlaogong(ラオゴン)という中国語です。中国語を知らなくとも、漢字から意味が想像できると思いますが、日本語では「労働者」です。しかし、戦時下の日本に連行されてきた中国人を「労働者」ということは、はたして適切でしょうか。

 労働者であれば、本人の意思でいつでも会社をやめることはできるでしょうし、賃金や休息日などの労働条件を定めたうえで雇用契約を結び、なにがしかの賃金を受け取ることができます。ところがこれらの人たちに話を聞くと、雇用契約も結んでおらず、「お金はいっさい受け取っていない。帰国にあたって支給された毛布をお金に換えた」「帰国前にすこしばかりのお金が渡された」と言います。長時間労働と、少ない食事で常時、飢餓状態。服はぼろぼろ、入浴することもほとんどできず、病気やけがをしてもろくな治療も受けられない。さらには、外出もほとんどできず、ほぼ監禁状態にあり、とても「労働者」とよべるような実態はありませんでした。奴隷と言うべきではないかとすら思えます。それで、中国語をそのまま使いました。

中国の学者のなかには、「戦俘労工」という呼称を使っている人もいます。「戦争で俘虜(捕虜)になり、労働をさせられた人」ということでしょうか。ただ、捕まったときの事情はさまざまで、軍人(国民党軍や八路軍)だけではなく、野良仕事をしているときに日本軍が村に押し寄せてきて捕まった農民、町で買い物をしているときに良民証を持っていないから八路軍だとみなされて捕まった人、「青島で飛行場の工事があり、労賃がもらえる」とだまされて日本に連行された人など、捕虜とはいえない人もたくさんいます。