「置戸町史」に見る中国人強制連行(6)
『置戸町史』で興味深いのが、北見中学の「勤労日誌」と、元野村の職員であった鈴木利身さん手記です。
「勤労日誌」の昭和一九年一一月一〇日と一一日の分が紹介されています。
昭和一九年一一月一〇日
目標/規律ノ厳守
作業/入山式及び工場見学
総員/五六名
作業/反省事項
北見七時十六分発にて置戸に八時二十五分着、直ちに宿舎に入り、鉱山事務所前にて
入山式挙行さる。後、工場見学に移った。鉱山の方の説明により水銀について得るこ
とが多かった。工事途上であるといふ工場の規模の大いのに驚く。
宿舎は大きい部屋一つ、小さい部屋三つに分れるのであるが、非常に窮屈だ。
昭和一九年一一月一一日
一、用度 一・二班に分れて駅前にて石炭整理及トラックへ積み下し
一、木工場 木材運搬
一、建設 整図
一、勤労 事務手伝ひ
一、総務 事務手伝ひ
一、殖産 事務
一、採鉱 地ならし作業
華人等と共に仕事をすることが多い。規律ある団体行動の下に大いに頑張ろう。
「華人等と共に仕事」の内容を知りたいものです。
元野村の職員であった鈴木利身さんの証言も囲み記事で取り上げられています。
「坑内作業の華人は何を履いているかというと、セメントの紙袋をむしりとってこれを足に巻き、その上を筵などでくるんで縄でしばって歩くので、異様な格好でそのオンボロ行列たるや見ものだった。夕方作業を終えて彼らは宿舎に帰るのだが、足の霜やけが赤むくれになり、日中は雪がとけ夕方の冷気にザクザクしたしばれた道を大声で泣きながら歩いている者もある。
それで建設用のセメントは何百袋となく乱袋となり風化して本来の用をなさず、セメント倉庫の周辺に散乱しているのである。
こんな状態は所長をはじめ幹部職員の目に入らないわけではないのだが、一向に善処する気配はない。セメントなども申請すると、軍需省の指令でいくらでも確保できるし、乱袋になると近くの町村から灌漑溝の修理、その他物資不足の中で、殊に貴重なものだったので、払い下げを願い出て引っぱり凧の態である。」