「置戸町史」に見る中国人強制連行(3)

置戸町史は、同町に連行されてきた中国人の人数について、三つのデータをあげています。

北光水銀鉱には、同一九年から二〇年にかけて中国軍俘虜約一〇〇〇人と、民間中国人(華人と称していた)が一九五人、韓国人約一二〇人が送られてきた。(出典は示されていません)

②野村鉱業直営の第一華人寮に収容された中国人は、昭和十九年五月と六月の二回にわたり、江蘇省の連雲港を出港して五月二十日大阪に上陸した第一次部隊の置戸着が五月二十四日。七月一日の上陸の第二部隊は、七月十四日に置戸に着いている。船中と列車内での死亡者はゼロである。置戸での死亡者は二四名で、皆到着後三ヵ月以上たってから死んでいる。

死亡率は一二・三パーセントになる。

伊藤組経営の第二華人寮に収容された中国人は、四九九名で乗船(乗船地、年月日不明)したが、船中で六十八名が死亡し、二十年五月二十九日富山県東岩瀬港に上陸している。車中でも十五名が死亡し、六月一日に置戸に着いたときは四一六名になっていた。置戸到着後三ヵ月以内に一二名が死亡した。終戦後帰国のため、三井鉱山砂川炭鉱に集結してからも一九名が死亡し、出発時からの死亡者の合計は一二三名で死亡率は二四・六パーセントに達し、平均四人に一人が死ぬという高率を示した。

地崎組経営の第三華人寮に収容された中国人は、五三五名中三九名が乗船時迄に減り、一九年三月二十一日に青島を出港して三月二十六日に下関に着くまでに、一名が死亡し四九五名が上陸した。はじめイトムカに送られ、車中で七名、イ卜ムカで八名が死亡した。終戦間近かになってこのうち二九〇名が置戸に回されたが、置戸での死亡者はゼロであった。

以上置戸の三華人寮での死亡者は、四五名になっている。(小池喜孝氏「置戸の中国人」、『文芸北見』所収)

置戸町史をそのままここに書き写しましたが、野村の被連行者数が抜け落ちていることに違和感を覚えます。原文の「文芸北見」を見ていないので確定的なことは言えませんが、小池氏には野村の被連行者数は分かっていたはずです。引用の仕方に問題があるのかもしれません。もう一つ、気になるのは、地崎組について「終戦間近になって二九〇名が置戸に回された」と書いていることです。昭和19年4月1日にイトムカに着いた石門隊292人、済南隊196人のうち、石門隊が置戸に移動したのは、同年8月15日です。そして11月に愛知県に移動させられ、45年6月30日に赤平市平岸に再移動になっています。この隊の全経過から見た時、「終戦間近になって」という表現は適切とはいいがたいように思います。