「置戸町史」に見る中国人強制連行(1)

 

戦前、水銀は艦船の塗装や魚雷の起爆装置に不可欠で、国を挙げての大増産が進められました。野村鉱業(現・野村興産)は1941年に同町に技術陣を調査に送り、同年6月に契約し、採鉱を開始しました。水銀採掘が置戸町でどのようにすすめられたか、『置戸町史』は次のように書いています。

 

 

 

「野村鉱業所となってからの探鉱は拡大され、全山を一〇〇メートル刻みで碁盤目にビットを堀り(ママ)、有望視される所は五〇メートルに縮め、だんだんと追いつめるよう探鉱を続けた。さらに中田慶一らが派遣されて、ボーリングによる探鉱が始められた。鉱山事務所には労務者宿舎『まこと寮』も建ち、所長代理として上田国太郎が同一七年赴任して来た。

 

 

 

また同年にはオンコ橋の下流付近に五〇%位の上質鉱まで発見され、続々と上鉱が貯蔵されるなど、軍需鉱業所として揺るぎないものとなり、イトムカとの人事交流、技術の導入などによって、選鉱場、精錬場の建設へと躍進、翌一八年には従業員約二〇〇人と下請の組が入って生産も上昇、軍需省の助成金も月額三七五万円という巨額を得ることとなって、職員の賞与なども全国一位の一二〇割も支給されるという、まさに水銀による黄金時代を迎えた。」

 

 

 

「上層幹部職員も疎開を兼ねて大阪、東京方面から配置されてきて、枢要な職場の責任者となった。そのほか専門学校生徒、旧制中学生なども勤労学徒として動員され、山は大いににぎわって次々と職員寮、大和寮、女子寮、職員住宅などが急ビッチで建てられていった。」

 

 

 

「鉱山事務所長には吉村孝治郎が就任、事務所には総務、労務、採鉱、殖産、建設、用度などの課が同居していたが、総務には前田寿課長ほか三〇名程度で主に庶務、職員人事、電話交換、酒、タバコ、衣料品等統制品の管理配給、その他各寮の管理や診療所(原田医師)理髪所、購買部などを統轄していた(なお戦後は事業課、経理課ができて総務課長が兼任)。」

 

 

 

「労務課は上田国太郎課長ほか三〇名程度で、他の鉱山から来た人が多く、主に外勤パトロール役で、特に重要な仕事は、中国人・韓国人の労務管理であり、上田課長は随分と神経を使っていたようである。」


「愛の川と国道沿いに青葉坑を中心として、第一、第二隼坑、中切坑、猛進坑など、蜂の巣のように坑道を堀削、また露天堀も続いて、同一九年には七メートルから一〇パーセントの上鉱を留辺蘂の精錬場へカマス詰めにしてトラックで送った。」

 

水銀の露天掘りもおこなわれた置戸。方々で蒸気があがっているが、水銀が蒸発しているという。