オホーツク民衆史講座と中国人強制連行(9)
1976年11月1日付「オホーツク民衆史講座ニュース」特集号が中国人・朝鮮人殉難慰霊碑建立と慰霊祭・シンポジウムの様子を伝えています。
1944年5月、置戸駅についた有蓋貨車から、異様な風態をした人々が降りました。きびしい監視つきの中を、置戸水銀鉱山近くの華人寮に運ばれたこの人たちは、中国の山東、河北省で行われた「労工狩り」で拉致された中国農民の方たちでした。寮の前には交番が建っていました。
華人寮は三つでき、第一が野村鉱業の直営で採鉱、第二の地崎組は、中国人を土木工事に使いました。そのほかに朝鮮人寮もありました。
強制連行者の待遇はひどいものでした。靴の代わりに南京袋やセメントの紙袋を足にまき、高野豆腐ほどの大きさの、フスマ(澱粉粕)で作ったマントウ二個の食事では、飢えと寒さで死ぬのが当然でした。
また、この特集は、被連行者で日本に残留した張冠三氏の言葉も伝えています。
「青島の競馬場に集められた。やがて貨物船の船底に押し込められ、甲板には出られず、汚物と暑さの中ですごした。上陸したのは大阪だった。貨車で運ばれ、着いたところが置戸だった。私は炊事係だったので、朝二時ごろ起きて、少ない原料つかっての食事作りに苦労した。死亡者は寮で死んだ一人しか知らなかった」
中国に行って強制連行被害者と会うことのできなかったこの時代に、日本に残留した被連行者から証言をえたオホーツク民衆史講座の力量のすごさを感じます。