オホーツク民衆史講座と中国人強制連行(7)

 民衆史講座の1人で小学校教員である弦巻宏史氏は、河南省の農民・張冠三氏との出会いと証言について報告しています。(『民衆史運動 その歴史と理論』の「強制連行された中国人、朝鮮人との連帯」)

 (1)民族連帯の送別会

去る三月二八日(一九七八年)夜、オホーツク民衆史講座は、私(弦巻宏史)網走市への転任のために送別の宴を開いてくれた。そこには、私にとって生涯忘れ得ぬ人びとが集まっていた。

強制連行などで、まさに辛酸をなめつくしてきた“生き証人” の方がた――中国人、朝鮮人、そして私たちの民衆史運動に参加した婦人と教師の仲間たちであった。

朝鮮料理を食べ、酔うほどに歌がとびだした。

張冠三氏の番になった。張氏はその長身を折りまげ、いつもは毅然とのばしている背を丸くして、はにかんでいた。が、やがて、中国語で若干の説明をして、故郷である中国河南省の民謡を吟じた。かん高い独得な民族的発声と哀調をおびたその施律が座を圧した。

私の、酔った頭の中を彼との出会いにはじまる感動的な日々のことがかけめぐり、彼の胸中の思いがいまにも私の胸に突きささってくるような気がした。彼との出会いは、一昨年(一九七六年)四月、運動に共鳴した旧知の相原千太郎氏が、氏の義弟である張冠三氏に、私と小池喜孝氏を紹介してくれたことにはじまる。張氏の営む中国料理店の静かな二階で話をきいた。正座して美しい柔和な微笑を絶やさないこの老人が、はたして中国で捕えられ、貨物船の船底に積み込まれ、運ばれ使役され、そして痛恨と憎悪の日々を過した人であろうか。しかし彼の発する言葉はまぎれもなく中国人そのものの発音であり、その日本語は難解をきわめた。地図などを広げ、幾度もくりかえしてもらって、やっとあらましが理解できた。彼は、これまで、かたくなに日本語を憶えようとはしなかった(利子夫人談)。そのことが、彼をいっそう寡黙にした。

私たちは、その後の運動の中でしばしば彼を迎えて証言を期待した。あるとき彼は大いに語った。しかし、あるときは、彼の口は閉ざれたままで、苦悩の色さえありありと見えた。

その彼が、いま私と仲間の連帯に応えて声をふりしぼっているのである。胸が熱くなった。

朴間五氏が歌った。得意のアリランである。アンコールだ。哀愁と痛切な訴えを秘めた祈りのような歌曲である。歌う心根と民族的な発声法の見事な統一がそこにはあった。

金鍾化氏が解説をした。金氏は戦前北見市で「朝鮮人狩り」にあい、千島に連行され、九死に一生を得、戦後は一貫して祖国の独立と統一のために奮闘してきた人物である。民族の文化を誇らかに語った。

徐先甲氏がなつかしそうに朝鮮の素朴な農民歌をうたった。氏は祭りが何よりも好きであった。

 こうした暖かい送辞と歌のなかで、同胞から「まだ宿題を果たしていないのか」と言われたのは、李相鳳氏であった。

 「私はこの街の人と、酒場やバーでよく歌ったものです。でも十年ほど前からぴたっとやめました。歌えなくなったのです。日本の歌を。いま、祖国の歌を憶えようと勉強中ですが、まだうたえないのです……」一同は暖かく笑った。李相鳳氏の決意と日常の多忙さと努力が誰の眼にも明らかであり、彼の歴史を知るものの思いやりが、笑いの中に溢れていた。