考察のまとめ2 日本軍の捕虜収容所について考察したこと

日本軍は、中国侵略を開始したときから捕虜収容所をつくった。ところが、それは、単に戦闘で捕虜になった者を収容する施設ではなかった。軍関連の工事に使役し、さらには日本が接収した炭鉱などにも動員し、さらには日本へも送り出した。

今回、捕虜収容所のなかでも規模が大きかった河北省石家荘市の「南兵営」(5月23日~5月31日)、山東省済南市の「新華院」(6月7日~6月17日)、山西省太原市の「太原工程隊」(6月18日~6月22日)、そして日本への送り出し港につくられた天津市塘沽(6月23日~6月29日)の「労工収容所」、青島市の「第1・第2労工訓練所」(7月2日~7月14日)をとりあげた。

南兵営を長年にわたり調査してきた石家荘市の何天義さん、強制連行問題の専門家である河北大学の劉宝辰教授の研究と解説、南兵営での死者を埋葬した「万人坑」がどんなものであったかを詳述した趙菊さんの証言、そして被害者・張兆林さん(地崎組伊屯武華62番)、臧趁意さん(地崎組伊屯武華124番)、姜化民(地崎組伊屯武華)の証言を通して、南兵営とはどんなところであったかを明らかにした。

新華院については、北海道倶知安鉱山川口組脇方出張所に連行された劉作祥さんの証言によってまず、その実態をつかんだうえで、敗戦後、国民党政府のもとでおこなわれた捕虜収容所所長の戦犯裁判で何が問われたかを、和田英穂氏の論文および法務大臣官房司法法制調査部が発行した『戦争犯罪裁判概史要』という報告書で見た。済南収容所は、新中国でも裁かれている。第59師団長・藤田茂、済南防衛司令官・長島勤、59師団高級副官・広瀬三郎の供述があるが、そこでは、収容所での虐待・虐殺についてはリアルに述べられているが、日本への強制連行の言及はほとんど見られない。その点で、広瀬三郎の「二回(毎回約三百名)計約六百名を日本に送致する書類(后方参謀作製)を一閲し参謀長職印を捺して発送せしめたものてあります当時私は日本へ全員送られたものと思つて居りました」という証言は貴重である。

済南市の万人坑については、遺骨発掘調査を指揮した人民検察院副検察長・劉献林の回想録を紹介した。

山西省では「工程隊」がつくられた。太原の収容所は、19386月に建設され、19458月までにのべ6万人以上が収容されたとされており、規模は大きいが、ここから日本に連行された人は多くはない。この収容所の実態を明らかにするため、鹿島御岳事業所の被害者・張智有さん、閏生林さん、張考生さんの証言を紹介した。

張考生さんは、長野県の発電所建設現場で起きたいわゆる「木曽谷暴動」についても語っているが、その事件については別の機会に考察したい。

塘沽の労工収容所については、天津塘沽港務局の調査を紹介した。また、関係者の証言としては、ここから地崎函館に連行された劉智功さん、張瑞英さん、塘沽新港で少年工として働いた左文治さんの証言をとりあげた。また、記念碑の碑文も紹介した。

青島の労工訓練所については、青島档案館の研究員が見つけた華工赴日事務所赴日華工姓名表」について紹介した。この名簿に記載された人の多くは、三菱大夕張に連行された。おそらく中国国内で見つかった唯一の強制連行名簿であり、ほかにも中国で強制連行名簿が発見されないか、期待される。

青島档案館が発行した『鉄蹄下的罪悪』という史料集によって、青島の労工訓練所の歴史と概要を追った。日本に連行されると知った労工らの逃亡は、毎日のようにおこっている。これだけでも「契約」によるものではなく、だまされたり、「銃剣」によって連行された人々であったことが証明されている。青島に駐留した「桐部隊」の兵隊から聞いた逃亡事件も紹介した。

さらに青島社会科学院の張樹楓教授が日本の裁判で、中国側学者証言としておこなった陳述についても紹介した。