考察のまとめ その1

 昨日のブログをもって中国での強制連行に関する考察は区切り、これからは日本での強制連行を考察します。

 「強制連行は死のロードだった」(2013年5月17日~5月22日)で見てきたことは、次のようなことでした。

 

 地崎組上砂川の諸文書綴の「第1中隊入山後ニ於ケル概況」は、「計百五十二名到着し、重患者下関残留中五名の内二名死亡し、残り三名は十月四日当地へ到着せり」「華労着山せし時は、下痢患者甚だ多く・・・甲隊九十四名(軽下痢患、皮膚患多数含む)、乙隊二十七名(同)、丙隊十二名(下痢の為重患なるも歩行可なる者)、丁隊十九名(重患にして歩行困難なる者)」と書いている。いかに過酷な状況のもとで中国人が中国から日本の事業場に連行されたか、その一端をうかがわせるものであった。

 地崎函館ではどうであったか。『二战掳日中国工口述史』第5巻「港湾当牛馬」(何天義主編、2005年7月)に掲載されている被連行者の証言では、「航海中、1日2度うどんを食べたが、7日後、食糧を食べ尽くし、後は海水で煮た大豆を食べた。一人一椀だった。中国から持ってきたもので、麻袋に詰めてあり、船倉の石炭の上に置かれていた」(張樹堂)。船は大連で一晩停泊し、その後、朝鮮に向かって出航。11月27日~12月1日の5日間、暴風に遭遇し、対馬沖合で船は身動きがとれなくなった。

この状況を事業場報告書は、「航海の予定以上の日数を要せし為食糧に不安を感じ」、「下関到着と同時に船中に食糧の船入方を仮泊地対馬下県郡久田村内院村より華北労工協会東京事務所および地崎組東京出張所あて打電」―と書いている。連行者らが食うや食わずの数日間を過ごし、きわめて切迫した状況に置かれたことが鮮明に浮かび上がる。

地崎組東川事業場では、「塘沽出帆後華労ほとんど全部強烈なる下痢に侵されしために船中において16名、大阪上陸後16名、青森到着の際1名、現場到着後54名(このうちには一部他の原因によるものを含む)計87人の死亡者」を出した。事業場報告書は、「華北労工協会においてはあらかじめ買水を飲用せしめ白河の水の飲用を厳禁しありしに拘わらず」華労が「白河」の水を飲んだことに原因すると主張している。運河の汚水を飲まざるをえないところまで追いつめられていたことの証明にほかならない。地崎組は、函館、東川、伊屯武華のいずれでも中国から日本に連行するにあたって少なくない死者を出しているが、いずれの場合も、医師を乗船させていない。この点でも、地崎組の責任はたいへん重い。

北海道訴訟では、中国人側の敗訴ではあったが、強制連行・強制労働の事実は認定されている。しかし、強制連行事件をあらためて追跡すると、日本に連行してくる過程をとっただけでもいかに非人道的なものであったかを痛感させる。それだけに、この「戦後遺留問題」をこのまま放置してよいものかと考えずにはいられない。