青島档案館の強制連行関連資料(13)
青島档案館では、在青島総領事・喜多長雄々が青島市政府に出した太平山軍事工事への労工供出の要請文書も入手しました。1944年10月14日付でだされたもので、10月15日から12月末まで200名を供出せよという内容です。
この供出よりも前、1941年から43年にかけておこなわれた火薬庫造成工事に労工350人が動員されました。南京国民政府が得た情報では、工事が完了すると口封じに全員が殺害されたとされています。
かつて日本の陸軍倶楽部だった建物は、5年前に解体されました。戦後、この建物から3人の小児の遺体が出てきました。腹部が解剖されていました。
鉄山路85号の第1訓練所は、門の一部が残されているだけです。第2訓練所にあてられた汇泉体育场はとりこわされ、そのレンガの一部が新しい体育館の壁にはめ込まれました。
ドイツの砲台跡などは青島観光のスポットになっていますが、強制連行関連の遺跡や旧日本軍が占領していた施設などは、事前に調べていかないと分からないのではないでしょうか。
大港五号埠頭には水牢が設けられていたという証言があります。6、70人が胸までつからせられ、体温を奪われ、多くの命が奪われたのだそうです。病気になった労工は、台西嘉祥路3号の青島市伝染病院に送られました。大量の労工が送り込まれたため、病院は、もっぱら労工を収容する所になりました。
「抗日戦争後、新疆路、青海路の穴と溝の中で大量の労工の白骨が掘り出された。新疆道では、16箱になった」という記事を読んだ覚えがあります。また青島に行く機会があったら、これらの地を訪れてみたいと思います。