青島档案館の強制連行関連資料(6)

 

華工赴日事務所所長が市長に提出した「818日から25日の第6埠頭で働く労工の逃亡状況」「8月上旬から9月中旬の労工の逃亡状況」を見ると、毎日といっていいくらい逃亡事件が起きています。

 

<8月18日逃走3名、1927名、20日4名、2251名、2372名、2468名、25日、186名、計408名。内訳は膠州区288名、即墨区105名、労〔〕山区15名である>

 

830日に南泉の仕事に派遣した華労のうち1名が、昼飯時、ネギを買いに行くといって逃亡した。92日に膠州華工・高子美が携帯する麻薬3包を調べているとき、窓から逃亡した。3日朝、雨に乗じて、収容所の窓を壊して華工10名が逃亡した。5日朝、またも窓を壊し、華工30名が逃亡。6日、太平鎮に行かせた華工20名のうち4名が逃亡。同日午後7時ころ、収容所の塀を乗り越えて華工7名が逃亡。11日に膠州区の病気になった年を取った華工が帰郷するため駅で発車を待っている時、送って行った1名が逃亡した。以上、830日から912日までの期間に、合計54名の華工が逃亡した(うち膠州区25名、即墨区28名、労〔〕山区1)

 

 

 

「出国赴日手続的報告」では、826日に労工協会の島田科長の押印の書類を受けており、出船を宿舎でまっている」と書かれています。818日から25日までに計408名が逃亡していますので、出港者リストを補充することになり、100名を補充したのでしょう。

 

ただ、外務省報告書の「華人労務者移入・配置及送還表」を見ると、1944年7月6日に青島から176人を乗せ、9月10日に山口県下関に上陸し、三菱大夕張鉱の事業所に着いたのが9月12日です。7月6日にいったん出港したが、天候か船のトラブルかなにかで、青島に引き返し、再出港を待つ間に逃亡が起きたというようなことがあったのかと想像しますが、三菱大夕張の事業場報告書をまだ見ていませんので、確たることはいえず、ひきつづき検討課題です。