青島档案館の強制連行関連資料(5)

華北労工協会と華工赴日事務所の関係はどうなっていたのでしょう。

華北労工協会の青島事務所は、194111月に作られました。所長は、青島市長(初めは趙琪、後に姚作宾)が兼任しました。実際の権限は日本人の主任が握っていました。

事務所には業務科、総務科があり、業務科は、発証係・調査設計係・防疫係・写真係が置かれました。総務科には、会計係、医務係がありました。労工を大量に集め、管理・訓練し、送り出すため、鉄山路85番に第1労工訓練所をつくり、さらに被連行者が増えたため匯泉体育場を借り受け第2労工訓練所にしました。労工の需要がさらに高まった19448月に青島市華工赴日事務所がつくられ、労工の募集業務を引き継ぎました。そのため出国手続きを赴日事務所がおこなうようになりました。

仕事があるといってだまして労工として「募集」し、日本に送りこむというやりかたでは、ノルマを達成できなくなり、「治安対策」を理由に青島市内でだれかれとなく拘束し、「供出」することを始めたわけですが、収容所で暴動が頻発しました。