青島档案館の強制連行関連資料(4)

ところで、青島市「華工赴日事務所」とはどういうことをする事務所なのでしょうか。

『鉄蹄下的罪悪』は、華工赴日事務所は、19447月日本軍に協力する青島特別市政府が設立した機関で、青島郊外の諸県から労工を騙して集め、日本に送り出す実務を担当したと解説しています。

同事務所の組織規則では、「華工が日本に行く一切の事務をおこなう。中国には参戦の義務があることを発揚し、戦力を増強する」とし、労工の募集と管理・輸送に関する事項を取り扱うと定めています。

717日に青島市役所が華工赴日事務所設立にあたって「社会局労工科科長・李明徳を所長に派遣する」という命令が出ています。また、膠州区、即墨区、労〔〕山区に分所が設置されました。

華工赴日事務所が青島市から示された課題は、「第1期の目標として、赴日華工5000人を迅速に供出せよ」ということでした。

この目標に対して9月の時点で1040人。相当の開きがあり、日本側が目を付けたのが青島市内でぶらぶらしている人間でした。1944年8月16日、日本領事館主催の警備会議で、青島市警に青島市内で仕事もせずにぶらぶらしている人間や窃盗犯などの統計を出させ、それを「治安対策」を名目に逮捕するよう指導しました。そして、供出する人間1名につき33元を出すことまでおこないました。

『鉄蹄下的罪悪』は次のように解説します。

<短期間に捕まえる目標を達成するため、日本の領事館は青島市内の街頭で労働ができる乞食、浮浪者及び軽微な窃盗犯を華北労工協会に引き渡すことを提案している。警察局はすぐに《軽微な窃盗案件の犯人を青島労工協会に移送し、労役につかせる法》を制定した。そして日本の憲兵と特務機関の支援のもと、市内至る所でいわゆる"乞食""浮浪者""軽微な窃盗犯"を捕まえた。事実は、日本人が"処罰を示すことで暮らしが保たれるのではないか?"と言ったことではっきりしている。19448月に日本に連行された生存者の陳教本、朱正基、閻明の3人の追憶では、朱正基は青島の父方の叔母さんに会いにいく途中、日本人に引っ張っていかれた;陳教本は店の中で仕事をしている時に日本の憲兵に縛られ連行された。閻明は青島大港で仕事を探しているとき日本兵に引っ張っていかれた。ここから推定することができるのは、日本が制定したいわゆる《軽微な窃盗案件の犯人を青島労工協会に移送すし労働にふくさせる法》は、ただ隠せば隠すほど現れるだけで、引っ張っていかれたのは実際には大部分は青島の一般の人で、街の行商人や商店で働く人、甚だしきに至っては親戚を訪問した通行人だ。「風の音、鶴の鳴き声、草も木もみな兵だ」というがごとく、老も若きもみな労動力になる者は、日本人が捕まえる対象となった。19448月~10月、青島の日本軍と政府は青島に属する胶、即、3事務所は1040名の労働者を捕まえたが、その気が狂った程度の一端が示されている。>