強制連行の基地となった塘沽港(4)

「地崎函館」の被連行者(「強制連行は死のロードだった」でとりあげています)も、この塘沽の収容所に入れられていました。かれらの証言をみましょう。

 

[劉智功]

塘沽駅に着いて、列車をおりて私達は南へ歩かされた。約2里の道を歩いた。道の両側は海で、南の先端の土地に着いた。見上げると、塘沽冷凍会社という大きな建物があった。周囲は海で、大きな溝が掘りめぐらされ、塀の上部には電力網が張られ、敷地内は日本人が見張りに立っていた。警戒は厳重で、どんなことをしても逃げられない。

私たち22人は、大きな木造の家の一角にはいった。家の中に入ると、服を全部脱がされた。1枚の小さい掛け布団が配られただけだった。一日服もなく、裸でいた。早朝、点呼に行かなければならなかった。この建物は海に囲まれ、海風が吹いていた。私達は1枚の上着をはおって、凍えてずっと震えていた。翌日の夕方、私達は黒い木綿の服を受け取った。どれも古着で、服には番号が着いていた。逃亡してもすぐに分かり、連れ戻されて打ち殺される。

一日2度のご飯で、1度に凍ったウオウオトウひとつ。それに小さくてしょっぱいダイコンが一切れ。飲み水はない。家の中に225人がいて、桶1杯の野菜のスープがあるだけだった。皆は奪い争って飲んでだ。飲めなかった者は喉が渇いてしょうがなかった。

夜寝るとき、日本人は、服を脱いで床におくように命じた。脱いだ服は日本人が持って行って管理した。翌朝、呼ばれて服を受け取りに行った。その時誰も、どの服が自分のものか探すことはできず、渡されたものを受け取るだけだった。部屋に戻って広げると、人が群がり奪いあった。そのため服はやぶれた。どうしようもなく、破れた服を着て、点呼に行った。

収容所では、ほかの部屋に勝手に行くことはできない。同じの村の馮国貞は、部屋が違ったので、彼が私達の部屋に来たとき、日本人に見られた。彼は電信柱に縛られ、殴られ、もう少しで殴り殺されるところだった。収容所では毎日7080人が殴り殺され、息があっても、海に放り込まれた。塘沽で逃亡した人がいたが、逃げ切れず殴り殺され、逃げ切った人はごく少数だ。