強制連行の基地となった塘沽港(1)

天津の塘沽(たんくー)港は、日本が中国各地から略奪した石炭や鉄鉱石、綿や食糧の一部を日本に運ぶために建設した港です。内陸部にあった港は、老朽化していて使い勝手がわるいため、日本は新港を建設することにしました。

1938年、日本の内務省は河北沿海地区を調査。それを受けて、395月に“興亜院”が“北支那新港計画案”を策定。塘沽の海岸線から5キロメートルのところを選びました。

同年619日、“北支那新港臨時建設事務局”を設立し、40年に工事を開始。工事の途中で敗戦になりましたが、中国側は、その後も工事を継続し、52年に竣工しました。

建設半ばの港でしたが、略奪した資源・物資だけでなく、捕虜のほか農民や教員、学生なども捕まえて労工として日本に運びました。石家荘の南兵営や済南の新華院など中国各地から送られてきた中国人は、船を待つ間、一時的に「塘沽労工収容所」に収容されました。塘沽労工収容所は、1943年の冬に塘沽港付近の埠頭に造られました。

天津塘沽港務局が1970年ころから、この労工収容所について調査してきました。