山西省の捕虜収容所と強制連行(5)

[鹿島御岳事業所名簿510番の張考生]

山西省左権県石匣郷林河村の農民です。1944年の旧暦512日、朝早く起きて、山頂の自分の耕作地に行き、ロバに斜面の草を食べさせていると、そこへ日本軍が現れました。洞窟を利用して住居としていた張は、父と祖父のいる家に向かって、“畜生が来た!畜生が来た!"と大声で叫びました。日本兵はその声を耳にして、機関銃で洞窟の入り口を掃射。父と祖父はそのとき殺されました。しばらくして夜が明け、張考生は日本軍に捕まりました。

 

▽北門の外の工程隊に連れて行かれた。日本人は11人に3寸四方の名札を配った。""の字と通し番号が印刷してあった。私の通し番号は440番だ。40数日、毎日働いた。防空壕掘り、かまどを掘ったこともあった。石炭を積んだ車を引っぱったことも、監視塔を清掃したこともある。さらに、死者担いだことさえあり、ぜんぜん休めなかった。

▽ある時、日本軍は列車で"山西軍"を臨汾から運んできた。車両閉じ込められていた人たちは全員死んでいた。2日間死体を担いで運び出した。

▽毎朝、白衣を着た日本人の医者が来た。病気で仕事に行けない人たちの"注射"に来た。あとでリーダーの"眼鏡の張"から聞いたが、日本人に輸血するため血を抜き取っていたということだった。幾日もしないで、その人たちはだれもかれも顔色が悪く、やせて、次々に死んでしまった。

▽日本兵が銃剣で18歳の八路軍兵士を刺し殺したことがあった。日本軍は、その場を私たちに見させた。若者は死の直前、"俺は18歳だ。(生まれ変わって)18年したら、必ず仕返してやる"と叫んだ。

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こうして被害者の証言を読むと、どこの捕虜収容所も中国人にたいする虐待のひどさは変わらないようです。さてこの太原工程隊の人々が、どういう事情で、どういう手続きをへて長野県に連行されたのでしょうか。実は、山西省から長野御岳に行った214人は、石家荘の収容所に入れられた人たちと同じ隊になるのですが、隊長をはじめ11人が暴動を起こしたことで、長野県の監獄に収監されました。「木曽谷の暴動」と呼ばれているのですが、事件の背景には劣悪な生活条件がありました。この問題もあわせてこれから調べたいと思います。