山西省の捕虜収容所と強制連行(3)

山西省から日本に連行された人は636名ですが、そのうちの214人が長野県の鹿島御岳出張所に連行されました。主には、発電所建設にともなう工事に使われました。

何天義主編『二戦虜日中国労工口述史』には、山西省から鹿島御岳に連行された10人の証言が載っています。これらの証言から、太原工程隊や鹿島御岳出張所の実態が浮かび上がります。

                  

 [鹿島御岳事業所名簿529番の張智有]

山西省洪洞県劉家垣鎮效古村の出身で、日本軍に捕まった1944年当時、山西省汾西で閻錫山の隊に入っていました。“日本人が何人かいる。すぐに行け”という情報があり、7、8人で北渾団村に行くと560人の日本兵に取り囲まれました。捕虜になり、太原工程隊に連行されました。

「われわれは太原小東門から2、30メートル北の工程隊に入れられた。そこに収容された人はとても多い。日本兵が外側をとりまき、真ん中に皇協軍がいて、その内側にわれわれがいた。建物は木造で、床の高さは50センチ。一間に100、200人がいれられた。建物の周囲は電気網が張られていた。食べ物はアワの飯で、1日に2度だった」と張智有は言います。

▽監禁されている間、兵器工場で働かされ、飛行場の建設で土木工事をしたこともあり、働けば2度の食事のほか饅頭がひとつ食べられたが、働かないと饅頭を食べることができなかった。

▽病気になっても病院にはいけない。病院に入るときは死ぬ間際で、そこは"閻魔殿"と呼ばれた。私は病院に行って死人を担いだことがある。担ぎ出して涸れた井戸に投げ捨てた。