山西省の捕虜収容所と強制連行(2)

日本に連行された中国人の出身地について西成田豊『中国人強制連行』は、山西省出身者は636名、日本への被連行者にたいする比率は1・9%と分析しています。

中国人を日本へ連行する際の実務的な面を担ったのが、華北では「華北労工協会」でした。北京、天津、青島、の三特別市と、河北、山東、山西、河南、江に5省に15の支部がつくられており、華北労工協会の機構という点からは、山西省が日本への連行が少なかったことの理由を推測することはできません。

太原工程隊に入れられたことがある劉侵霄という人は、「(工程隊が満員になると)大多数は遠くの地、たとえば中国東北の撫順炭鉱、北平捕虜収容所に労工として送られた。あるいは日本で労工にさせられた。さらに太原付近の炭鉱、飛行場、日本人が経営する会社や酒保で働かされた」と述べています。酒保というのは、兵士向けの売店です。

山西省では、捕虜を「工程隊」に組織・編成しました。太原、臨汾、大同など各地に「建有工程隊」があったほか、日本軍が作戦をおこなうときに臨時に「臨時工程隊」「流動工程隊」がつくられ、このうち最大のものが「太原工程隊」でした。山西省では、捕虜を省内の炭鉱や軍の工事に使うことが、他の省に比べてたいへん多かったのではないでしょうか。それが捕虜とその収容先を建物の名称で呼ばずに、隊の名前で呼んだのではないでしょうか。そして、捕虜を中国東北部や日本に送ることもありましたが、他の省に比べて少なかったということだったのかもしれません。

山西省に侵攻した日本軍は、19415月の中条山戦役で中国軍3万5000人を捕虜にし、42年春夏の八路軍にたいする掃討で数千人を捕虜にし、太原集中営に収容しました。石家荘市の研究者・何天義氏は「太原集中営には7年間で6万人余が収容された」としています。