裁かれた済南新華院(8)

中華人民共和国の裁判では、戦犯に問われた日本人の供述書、中国人被害者の訴え、さらにさまざまな資料集めもおこなったようです。

済南市人民検察院は、1954年に済南新華院がつくった万人坑の遺骨発掘をおこない、その調査結果を裁判資料として提出していますが、これもその一つでしょう。

当時、その発掘調査にあたった責任者、済南市人民検察院副検察長の劉献林が回想録を残しています。

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1954812日、済南市人民検察院は、済南郊外6区西十里河村の全村民から日本侵略軍が済南西郊外の琵琶山下の万人坑" 抗日軍民を殺戮したことを告発する材料を受け取った。山東人民検察院に報告がいったあと、また中華人民共和国最高人民検察院にも報告された。同年12月、最高人民検察院は検察官の李瑞珍を派遣し済南市人民検察院万人坑" の白骨掘り起こしの指示を伝えた。市委員会と省人民検察院に報告して、決定は市政府と上級の検察機関の指導の下、済南市人民検察院検察長の李文村を総指揮官とし、副検察長劉献林は発掘を組織した。そして検察官の鄭文斉、哀春魁らを具体的な仕事に参加するように派遣した。市公安局、市建設委員会、大衆新聞社、郊外6区の人民政府など29 の部門によって発掘の共同調査グループを組織した。

発掘前に山東省の醇城、都県などの地に人を派遣し、被害者の遺族を探し、詳しい調査を行った。そして済南郊外6区西十里河村の村民を集めて座談会もおこない、“万人坑" の情況と場所を掌握した。