裁かれた済南新華院(7)

59師団の藤田師団長はこうも語っています。

 

<私ノ六月一五日ノ訓示ニ起因シ陣地構築ニ使用シタル済南俘虜収容所ノ俘虜六〇〇名以上ヲ六月一五日以後ニ於テ教育ニ使用シ刺殺セシメマシタ此事実ハ私ガ蘇連ニ抑留中蘇連調査官ガ私ニ対シ「済南ニ於テ一九四五年六月ニ俘虜六〇〇名以上を一日三〇名―一〇〇名第五九師団ノ兵ガ殺害シタコトヲ汝ハ知ッテイルカ」ト尋問サレタコトニヨリ証明サレマス」

 

                 (中国档案館整理『日本侵華戦犯筆供』)

 

藤田中将は、19566月に開かれた特別軍事法廷で禁固20年を言い渡されました。

 

裁判記録『正義的審判』を見ると、検察官は「師団長になってから、繰り返して刺突訓練を強調している。 被告人のこの罪悪の訓示のもとで、彼の所属の部隊は19455月~6月に、相前後して山東省蒙陰,沂水などの県で、捕虜と住民・趙遵起ら百人余を殺害した。また、被告人は、戦場で捕まえた捕虜を殺し、戦果に入れるよう命じた。そのため、彼の部隊は19455月~6山東省で秀嶺作戦による捕虜80数人を殺害した」と断罪を求めています。

 

同じ第59師団の歩兵第54旅団長だった長島勤は、済南防衛司令官(兼務)として軍法会議の決定を受けて死刑執行をおこなったと供述しています。収容所の管理にも責任を負っていました。

 

<私ハ一九四三年九月草野見習士官ヲ伴ヒ処刑場ヲ視察シマシタ。当日ノ状況ハ被害者ハ軍法会議ノ職員及ビ射手ガ同乗シ「トラック」デ軍法会議カラ刑場ニ来テ下車セシメ受刑者ハ布片デ目隠シサレ深サ二米、中径約二米半ノ漏斗状ノ穴ノ上縁ニ穴ニ向テ跪座セシメラレ検察官ノ指揮ニヨリ軍曹ノ号令ニ依リ一名宛射手ガ約二米離レタ所カラ後頭部ヲ狙撃シ銃殺シマシタ。被害者ハ穴ニ転落シ検察官ト軍医ハ検死ヲ行ヒ更ニ一、二発射撃ヲ加ヘタコトモアリマシタガ多クノ人ハ一発デ絶命シマシタ。・・・処刑終了後法務下士官ハ遺骸ニ「シャベル」デ土ヲ掛ケマシタ。>

                         (中国档案館整理『日本侵華戦犯筆供』)