裁かれた済南新華院(6)

これまで見てきた裁判は、国民党政府のもとでおこなわれたものですが、その10年後、中華人民共和国になったもとでふたたびこの捕虜収容所が裁判に登場しかけました。日本の敗戦によりソ連軍の捕虜となり、19507月に中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に勾留されました。勾留中に彼らは、自ら罪状を認め、供述書を作成しました。

1945年5月26日から630日まで第59師団長だった藤田茂は、済南時代のことについて次のように書いています。

<私ハ六月一一日~六月一五日済南通信隊講堂。六月一六日~六月一九日青島混成第五旅団兵営ニ於テ夫々中隊長以上ニ対米軍戦法ノ教育ヲ実施シマシタ其最後ノ六月一五日ニ私ハ次ノ訓示ヲシマシタ「装備優良ナル米軍ニ対シ装備ノ遥カニ劣ル日本軍トシテハ精神力ノ強化ニ依リ之ヲ補ハナケレバナラナイ。之ガ為ニハ俘虜ヲ教育ニ利用シ之ヲ刺殺セシムルコトハ早道デアリ効果的デアル特ニ師団ノ兵ノ大部ハ東京付近ノモノデアル之等ハ戦場ニ弱イコトハ上海戦ガ証明シテイル此兵ヲ強クスル為ニハ時局的ニモ効果的ニモ俘虜ノ刺殺ヲ利用シテ近キ将来ノ米軍進攻ニ対シテハ最後ノ一兵ニ到ル迄戦フノ精神力ヲ教育シナケレバナラナイ私ハ精兵ヲ作ル為ニ俘虜ヲ使用シタ経験ガアル近クハ老河口作戦デモ人民百人以上ヲ血祭ニシテ快勝ヲ得タ」ト事実ヲ誇張シテ訓示シマシタ>

「胆力を鍛える」などと称して新兵教育に刺突訓練がおこなわれたことは、元兵士の方々から聞いたことはありましたが、“対米戦法の教育のため”というのは、初めて聞きました。硫黄島のたたかいになぞらえたのかもしれません。

また、藤田師団長はこうも語っています。

<私ノ六月一五日ノ訓示ニ起因シ陣地構築ニ使用シタル済南俘虜収容所ノ俘虜六〇〇名以上ヲ六月一五日以後ニ於テ教育ニ使用シ刺殺セシメマシタ此事実ハ私ガ蘇連ニ抑留中蘇連調査官ガ私ニ対シ「済南ニ於テ一九四五年六月ニ俘虜六〇〇名以上を一日三〇名―一〇〇名第五九師団ノ兵ガ殺害シタコトヲ汝ハ知ッテイルカ」ト尋問サレタコトニヨリ証明サレマス」

                 (中国档案館整理『日本侵華戦犯筆供』)

藤田中将は、19566月に開かれた特別軍事法廷で禁固20年を言い渡されました。裁判記録である『正義的審判』を見ると、検察官は「師団長になってから、繰り返して刺突訓練を強調している。 被告人のこの罪悪の訓示のもとで、彼の所属の部隊は19455月~6月に、相前後して山東省蒙陰,沂水などの県で、捕虜と住民・趙遵起ら百人余を殺害した。また、被告人は、戦場で捕まえた捕虜を殺し、戦果に入れるよう命じた。そのため、彼の部隊は19455月~6山東省で秀嶺作戦による捕虜80数人を殺害した」と論告しています。