裁かれた済南新華院(3)

済南の捕虜収容所の所長は、敗戦後、国民党政府のもとで戦犯裁判にかけられました。「中国で裁かれた旧日本軍捕虜収容所」(和田英穂)という論文に裁判の概要が紹介されています。1946年6月30日起訴、同年10月4日判決。被告は青井真光中尉で、44年7月10日~終戦まで同収容所所長をしていました。

[起訴状の内容] 44年7月10日から終戦まで済南捕虜収容所所長として、多くの捕虜を収容し、「中華民族の伝統思想を絶滅させ、この機会を利用し捕虜を連続して殺害し尽くそうとした」。僅かな食事のみで重労働にあたらせたため次々に死亡し、1名でも逃亡を試みた場合は全員に食事を与えず多数の餓死者をだした。また、所内の医療設備では外科ではその傷口を却って広げ、内科では毒死させた。これらの行為はハーグ条約第4条、5条6条、7条、17条、ジュネーブ条約第2条、3条、4条など、刑法第271条などの規定に違反する。

[判決] 「青井真光を中華民国に対する作戦期間中において、戦争法規および慣例に違反し、暴行を加え、連続して捕虜を殺害した罪により、死刑に処す。連続して捕虜を使用し、規定外の労働に従事させた罪により、有期徒刑10年に処す。死体を遺棄した罪により、有期徒刑5年に処す。死刑を執行する」というものであった。

審理では、被告は一切を否認し、脱走しようとした捕虜の殺害と、在任期間中に伝染病によって1000余名が病死したことは認めながらも、それらは上官の命令であると主張し、また強制連行に関しては収容所内の別系統の機関が担ったと主張した。弁護人も、死亡者1万2000人という起訴状の内容を、被告在任期間中の入所人数が合計1万5000人だったことから、その人数はありえないと主張し、それらの証言の信憑性を問うことを中心に弁護をおこなった。裁判所側は、弁護人の主張を認め、死亡者の人数は1000余名、強制連行、自殺者については責任は問わない、と判断し、捕虜の虐待と殺害、死体遺棄、強制労働に関しては有罪の判決を下した。

 

捕虜収容所での虐待は陰惨を極め、“悪魔の住むところで、入ったら最後、死ぬまででてこれない”とうたわれました。それだけに中国人の怨念は、真っ先に収容所長へ向けられたのでしょう。