裁かれた済南新華院(2)

済南新華院に入れられた被害者の話に耳を傾けましょう。北海道の倶知安鉱山川口組脇方出張所で働かされた劉作祥(川口組名簿54番)。彼は、新華院に1カ月入れられ、日本に連行されました。

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私は劉作祥といい、現在の年齢は79歳、山東省高青県花溝鎮竜虎村の出身です。1944年陰暦418日、当時、私は遊撃隊の隊員だった。呂家村で日本軍に包囲され、劉業竜、董振吉、李化同、李永成、王伝有と一緒に捕まった。日本軍は私達を王家に連行され、そこで一晩過ごした。翌朝、敵の拠点である岡福に連れて行かれ、一日もしないうちに私達を51組に縄で縛り、自動車に乗せ、張店監獄に運んだ。途中一人が車からとび降り逃走したが、日本人に捕まり、連れ戻されて殺された。張店監獄は平屋で、外に大きい鉄の門があり、下に車輪が付いていて、私達が中に入っていくと、鉄門はガラガラと閉じられ、鍵がかけられた。食べものはコウリャン飯で、碗がなく、食事の時、私達は手で食べた。日本人が出す量はとても少なく、腹一杯にならなかった。4日して、日本軍は私達を列車に乗せ、済南の新華院に連行した。

新華院は、四周を塀で固まれ、塀の上は電流の流れる鉄条網が張り巡らされていた。外では日本人が監視していた。監獄のような建物に収容された。寝床がなく、地面の上に稲わらを敷いた。食べものはトウモロコシの粉かコウリャンの飯で、一日3 度。時にはおかゆで、時には携帯用食品で、野菜はなかった。いくらも食べることはできず、まったく腹一杯にならない。山の上で日本軍の倉庫の周りに溝を掘らされることがあった。一日数時間働き、終わってから新華院にもどった。ここは、前の方は新華院だが、後ろは閻王殿だった。日本人は、病気にかかった中国人を新華院の後方の病棟に運んだ。病棟に入れられたものは放置された。中にはたくさんのネズミがいて、これらのネズミは、人の目と耳をかじった。日本人は、死者を運び出した。聞くところによると日本人は、死人を西洋犬にえさとして与えたという。新華院で1カ月たち、出発間際になる時、私達に青い上着と青いズボンを支給した。3つの中隊に編成され、1つの中隊は大体百数人だった。私は自分が何中隊だったかはっきり覚えていないが、中隊長は、河南の馬という人だったことは覚えている。日本兵は機関銃で私達を抑えつけ、列車に乗せ青島に連れて行った。(『二戦日中国労工口述史』)

 

ここ済南の捕虜収容所も石門の捕虜収容所も、収容された中国人にたいする虐待のひどさは変わりないですね。たくさんの人がここで命を落としました。