「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(7)

飢えと拷問、重労働、そのうえ雨も吹き込む宿舎。労工教習所の中国人たちは、死の崖っぷちから逃れるべく決死の暴動をおこないました。その結末も趙菊さんは見ていました。

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南兵営で暴動が発生して間もない、雪が舞い、特別寒いときだった。午後5時、6070人が死んだという兵営の電話が来て、私達死体運搬隊は全員が出動し、南兵営に行ったが、表門で日本軍は私達を遮った。何が起こっているのか。西方を見ると、ちょうどそのとき日本人が人を殺していた。白い軍服を身にまとい、赤い革のゲートルを巻いた背が高く太った日本の将校が、東洋の刀を持って、捕虜の背後に回り、東洋刀を振りあげ、たたききった。その捕虜の頭は溝に転がり、胴体は前に倒れて、溝の中に落ちて行った。このようにして、約半時間で続けざまに20数人を殺した。

私達は驚き茫然とした。中国同胞が敵に無残にも殺されたことの悲しみ。また、血が流れる死体を運べば、借りてきた馬車に血がつくが、どうやって馬車の貸主に報告すればいいのか。 それらの遺体は、スコップを持った3人が来て、その場に埋め、外に運び出すことはしなかった。この時、通訳が走ってきて日本人は本当に残忍だ。たちまち26人を殺したと吐き捨てた。そして、言った。今日見たことは、言わないように。翌日も死体を運んだが、捕虜達への脅しと警告の張り紙がしてあった。