「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(6)

趙菊さんの証言は続きます。

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 そのころこの仕事(遺体を墓地に運ぶ仕事)をしたのは13人いた。中心的だったのは、趙秋来、趙福群、劉東来。いつ、どこに運ぶか、その手はずを3人から聞いた。

南兵営は、約2メートルの塀に囲まれていた。塀の上には、電力網が巻きつけられている。塀の四角は監視塔があって、昼も夜も日本兵が見張りに立った。塀の内側に深い溝がある。

私達は毎回南兵営から死体を運ぶとき、入り口でチェックを受けなければならない。収容所の中をむやみに歩き回ることは許されず、捕虜労工と話すことも許されない。

捕虜収容所の宿舎がずらっと並んでいたが、その一番南は病棟で、病棟の西の建物が死体安置所だった。収容所で死んだ人たちは、私達が運び出すまでそこに置かれていた。初めのころは、死体は服を着たままだったが、後には裸だった。収容所は服が足りず、衣服がない人がはぎ取って着たと聞いた。死体置き場に入って行くと、いつも鼠が群れをなしており、ネズミを追い払って死体を運び出した。

休門鎮の姚副鎮長の父が大工で、彼の家は南兵営で棺おけの仕事をしていた。私が死体を運び出しに南兵営にきた時はまだこの小さい棺おけの板を使って人を詰めていた。それ以後、死ぬ人がだんだん多くなり、棺おけは来なくなり、また多くの金が求められた。死者が多すぎて、多くの棺おけを使うことができず、日本人はござを使うようにさせた。それ以後も死者はますます多くなり、ござが足りないので、コウリャン殻を積み重ね、死体を荷馬車の上に積み重ねて、ござを上からかぶせ、縄で簡単に少し縛って運び出した。

 毎日数人が死んだ。たいてい死者は2、30人だが、多い時は780人が死んだ。一般的な状況では、私達は3台の車で行った。1台は人が引く大八車、2台は、大きい馬車だった。