「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(5)

何天義さんがインタビューした遺体処理班だった人の証言が『侵華日軍集中営』に出ています。趙菊という農民ですが、土地がいくらもないため、農家から野菜を買い入れて路上で売って生計をたてていました。

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 貧乏人が行き倒れになっても世話をする人はいない。鎮長(村長)は、私たちのような比較的貧しい家の若い人者に埋葬させた。いくらかお金をくれるときもあり、くれないときもあった。人々は私達を鎮役所の署員と呼んだ。なにかあれば、鎮長は私達に仕事をさせた。

19371010日、日本軍は石家荘を占領し、休門鎮にも日本人が入ってきた。それで鎮役所も日本人の命令に応対することが多くなった。 2年目のムギの刈り入れの前、日本軍は突然休門鎮の南の数百ムーの農地を取り囲み、はじめに金網を張り、後から塀を築いた。誰の家の土地かも構わず、賠償もせず、力ずくで占拠し、ほどなく南兵営と工場を作った。南兵営には日本兵が住み始めた。あとから収容所になり、もっぱら捕虜労工を収容した。収容所の条件は極めて悪いため、ほとんど毎日死者がでた。

日本軍は、死体の埋葬を休門鎮にさせた。そこで私達請負班は、収容所の死体の運び屋になった。1体の死体を埋めると、鎮役所は4元くれた。日偽連合銀行の紙幣で、初めはこの4元で10斤のアワを買うことができたが、のちには2個の饅頭しか買えなくなった。運んだ遺体は、 2年ちょっとで1000くらいだ。それから病気にかかり、このいやな仕事を辞めた。