「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(4)

  石家荘労工教習所は、石家庄市の市街地・裕華東路にありました。現在、「平和公園」になっています。公園の東側に“石家庄収容所受難同胞記念碑”が建てられています。1997815日、“後代の人に歴史を伝える”ため、抗日戦争勝利60年記念としてつくられました。碑文によると、石家庄収容所では5万数名の捕虜が拘禁され、そのうち2万数人が亡くなり、3万人は、「満州」(中国東北地方)と日本へ労工として送られました。 

収容所での生活条件は極めて悪く、労働者と捕虜は非人道的な待遇を被り、罪のない人が殺害されました。迫害、虐待、凍えと空腹で体が動かなくなり、多いときには一日で290人が死んだといいます。死体は、収容所から東南方向に約2キロ離れた休門というところの共同墓地に埋められました。 

強制連行問題の研究家・何天義さん(石家荘市在住)は、20年の軍隊生活を終えて、1985年に石家庄市委員会の党史研究室主任になりました。そこで始めたのが、石家庄の抗日戦争史料の収集でした。1951年に発行された石家庄日刊新聞に目を通していて、“南兵営の捕虜はすべて共同墓地に埋められており、共同墓地は南兵営の南西2里のところだ”と書かれていることに興味を持ち、その場所を探しました。 

南兵営の南西2里の周辺を訪ね歩いたもののなんの情報も得られず、反対の東南方向の道路に沿って聞き込みを続けて、「工場を建てる時、深く穴を掘ると大量の遺骨がでてきた」という情報を得ました。また、貿易会社の経理をしている人をはじめ当時のことをしる70歳以上のお年寄りに来てもらって座談会をおこなうなかで、遺体処理班にいた生存者がいることがわかりました。 

こうした調査活動を続けてようやく南兵営―石門労工教習所がどのようなところだったのかが分かってきたと何天義さんはいいます。「『日軍侵華集中営』に遺骨の写真が掲載されているでしょう。私が撮影したものです。日本と中国の合弁会社が自動車工場をつくったとき、整地工事をしていて遺骨が出てきました」 

この地一帯での本格的な遺骨発掘調査は行われたことがないようなので、これからも何かの工事がおこなわれる中で遺骨が掘り出されるようなことがあるかもしれません。