「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(2)

地崎組に連行された張兆林さんの証言は続きます。

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(石家荘収容所の)病棟は、1、2、3級の3等級に分けられた。3等級になると、十中八九死ぬ。毎日午後4時前後になると、「平板車」(荷台付きの自転車)に死体を載せ、外に運び出すところを見た。乱雑に車にのせ、全部で十数人の遺体を載せ、上からござを被せた。聞いたところでは、これらの死体は、市郊外の万人坑に運ばれた。

南兵営はこの世の地獄で、われわれはまったく逃げるチャンスはなかった。そびえる塀の上の有刺鉄線には電流が流れ、塀の4つ角には衛兵の詰める望楼が設けられ、着剣した日本兵が警備に立っていた。彼らは労工が逃げると死ぬほど痛めつけた。

日本人は数千名の中から身体の丈夫な青年300人を選び出し、血液検査をおこない、身体検査をし、そののちわれわれを別の部屋に入れた。それからわれわれに一つの名前が付いた。特別教育隊という名前だ。その目的は、われわれを日本に送り込み、労工にするための準備である。

日本の監督はわれわれに講話した。日本の国の勢いは盛んで、気候もよい。干ばつなどの自然災害もない。日本で一年働けば銭を稼げるし、技術も学べる。汗を流すことは、前線の兵士の血の一滴になる。日本が用意している道は理性的なものだ。彼らのことばは巧みに人を惑わせるものだった。

南兵営で18日間苦しめられ、旧暦2月26日早朝、汽車に乗り、衡水、済南(ここで200人の労工が乗り込み、いっしょになった)を経て、翌日午後、青島車駅に着いた。

      (『二戦擄日中国労工口述史』所収「张兆林访谈录」から要約抜粋)