「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(1)

「強制連行は死のロードだった(1)~(6)」で、中国の塘沽や青島から船で輸送されて日本に来るまでに中国人被害者がどのような惨状にあったかを見ました。今回からは、中国の収容所はどんなところだったかを見ます。まず、地崎組に連行された張兆林さん(地崎組名簿62番)の証言を紹介します。彼は、1923年7月2日生まれで、河北省寧晋県周家荘郷魏家荘村の出身です。日本では、伊屯武華、大府、平岸で強制労働をさせられました。

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1942年、日本人は冀中地区で残虐な5・1大掃討を実行し、中国人を辱め、蹂躙した。それで私は自分から革命運動に身を投じた。5・1掃討のあと、日本人はいたるところに拠点をつくり、望楼を構築し、冀中地区を支配できると妄想した。日本軍に対するため、わが県では、県城の東の大拠点の近くに情報連絡点と情報総点を設置した。毎日午後4時以後、総点に来て、日本軍の兵力の増減と活動状況などの情報や、わが部隊をどこに移せば有利かなどを出しあった。1944年正月29日、敵情視察に雷家荘村東に行ったとき、日本軍と偽軍につかまった。

南兵営では、1日2回、コウリャン飯を食べた。はしも茶碗もなく、ただあったのは缶詰の空き缶だけだった。食事の時間になると、炊事員がコウリャン飯をいれた米櫃を厨房の入り口から運んできた。みんなは先を争って食べた。多くの者が飢えていたので我先に争った。あるときは一口しか口にできず、ときには一口もありつけなかった。日本人はその様子を見て大笑いした。彼らの喜びは、われわれの苦痛の上に成り立っていた。われわれにはお湯もなく、井戸で空き缶に水を汲んできた。

このような境遇で病気になる者も多く、少なくない者が発熱し、下がらなかった。病気になると、その程度に合わせて病棟に送られた。