強制連行は死のロードだった(4)

地崎函館に連れてこられた岳雲起は、1945年2月2日に胃腸カタルで亡くなっています。同じ村の劉智功は、「岳雲起は船で病気になり、何も食べられず、函館に着いた後、不眠症になった。眠れないのに日本人は休みをあたえず、だまして仕事をさせた。それからある日、本当に動けなくなり、作業場に行けなくなり、夜になって死んだ」と語っています。

入山後2カ月での死亡は、強制連行がいかに過酷なものであったかということを示しています。また、地崎組は、最初の2カ月を「軽作業」と生活面の指導と作業に必要な日本語を覚えさせる訓練期間と決めていますが、その期間であるにもかかわらず、「休みを与えず、だまして作業をさせ」、死に至らしめたという点も地崎の責任は重大です。

事業場報告書は、「前回、本組において、移入したる華労の健康状態と比較して格段の差異を認めらるるは、現地タンクーにおける収容期間の短かかりしと、特に料水に格別の注意を払い、これを当組引率者が購入し、彼らに給与したるがため、これら良好なる結果を招来せしものならんと思惟せらるる所」と書いています。これは、東川事業所への連行を指しています。

地崎組東川事業場報告書は、「移入に際し塘沽出帆後華労ほとんど全部強烈なる下痢に侵されしために船中において16名、大阪上陸後16名、青森到着の際1名、現場到着後54名(このうちには一部他の原因によるものを含む)計87人の死亡者を出すに至る。これが原因を華労につき調査せるところによれば、華北労工協会においてはあらかじめ買水を飲用せしめ白河の水の飲用を厳禁しありしに拘わらず華労にありては乗船当時の酷暑に堪えかね責任者の監視の隙を窺いこの水を多量に飲用せるものと認められる」と記述しています。

白河というのはタンクー港に流れる運河のようです。運河の汚水を飲まざるを得なかったとすれば、中国人はよほどの状況下に置かれていたということでしょう。地崎組は、水を買う費用も華北労工協会に渡してあるので自分たちには責任がないといいたいのでしょう。しかし、そういう言い逃れが通用するでしょうか。

しかし、もっと重大なのは、医師を同乗させていないことで、12日間の航海中、適切な治療をおこなわなかったことが甚大な被害を生みました。