強制連行は死のロードだった(3)

「地崎函館」に連行された中国人は、1944年1121日に塘沽港を出港し、122日に下関に着きました。事業場報告書を見ると、7日間の航海予定で、その分の食糧しか船には積み込まれなかったが、実際には12日間かかっています。昨日のブログで紹介した張樹堂の「7日後、食糧を食べ尽くした」というのは正確だったのです。

被害者のひとり、劉智功は、「(乗ったのは)貨物船で、船底は石炭が積まれていた。私たち200人余は、体を横たえることもできない。出航すると、多くの者が船酔いした。飯を食べられず、黄色い水を吐きだした」と語っています。船には水も積まれていますが、中国人は飲むことができませんでした。張樹堂は、「山東省の出身者が、機械から落ちてくる水があると教えたので、飲みに行った。日本人に見つかり、棒で殴られ、腰を強打された。起き上がって機関室から逃げ出したら、日本人は追ってこなかった。航海中、私達は空腹でふらつき、喉はカラカラに渇いた」と振り返っています。他の被害者も下関に着いて消毒をされるときに、「浴槽にとび込んで水を飲んだ」「たらいで水をたっぷり飲んだ」などと語っています。

船は大連で一晩停泊し、その後、朝鮮に向かって出航。11月27日~12月1日の5日間、暴風に遭遇し、対馬沖合で船は身動きがとれなくなりました。事業場報告書は、「航海の予定以上の日数を要せし為食糧に不安を感じ」た職員は、「下関到着と同時に船中に食糧の船入方を仮泊地対馬下県郡久田村内院村より華北労工協会東京事務所および地崎組東京出張所あて打電」―と書いています。

事業場報告書の記載と張樹堂の証言と合わせて見れば、被連行者らが食うや食わずの数日間を過ごし、きわめて切迫した状況に置かれたことが鮮明に浮かび上がります。

ところが、地崎組は、「移入は良好」と評しています。

「塘沽出帆・下関着港までの間に暴風に出会い、風浪のため航海期間の延長に伴い、華労に多少の疲労を見受けられたるも、病人の発生その他の事故なく、無事下関に到着せる」

そればかりか、「船中に於ける医師の欠けたる為遺憾の点ありしも日本に上陸の後は夫々の場所に於いて入院治療を受けせしめ取扱上遺漏なきよう期したり」と開き直っています。

医者も乗船させず、食糧の予備も底をつき、きわめて危機的状況に陥ったのにもかかわらず、「良好」というのはいかがなものでしょう。地崎組には、安全配慮という責任感が欠落していたあかしではありませんか。