強制連行は死のロードだった(2)

地崎組が中国人の強制連行・強制労働をおこなった事業場は11に上りますが、整理すると6グループに分かれます。

   地崎伊屯武華(そののち置戸・大府・平岸)」 に1944年4月1日に488人(青島出発は3月21日で496人だったが、途中8人が死亡)

   地崎東川」に44年9月14日に264人、10月25日に40人の計304人(塘沽出発は9月14日・297人と10月14日・41人の計338人で、途中34人死亡)

   地崎砂川」に44年10月4日に155人、11月27日に132人の計287人(塘沽出発は9月16日・162人、11月16日・132人の計294人で途中7人死亡)

   地崎大夕張」に44年11月22日に327人(塘沽出発は11月5日・388人で途中1人死亡)

   地崎函館(そののち大野・落部」に44年12月7日に225人(塘沽出発は11月21日・225人で途中死亡なし)

   全国の事業所から送られてきた「不良華人」106人を収容した北海道第一華人収容所

 

きのうのブログで③の「地崎砂川」における連行過程をGHQ/SCAP文書で見ましたが、しばらく「地崎函館」での連行過程を追いたいと思います。

中国側による被害者の証言記録である『二战掳日中国工口述史』第5巻「港湾当牛馬」(何天義主編、2005年7月)に、「地崎函館」の被連行者も出ています。日本への航海についてこう語っています。

「航海中、1日2度うどんを食べたが、7日後、食糧を食べ尽くし、後は海水で煮た大豆を食べた。一人一椀だった。中国から持ってきたもので、麻袋に詰めてあり、船倉の石炭の上に置かれていた」(張樹堂)