強制連行は死のロードだった(1)

GHQが集めていた地崎組の上砂川関係文書に戻りましょう。SCAPシート№LS-23649は、「諸報告書綴」というタイトルになっていて、「10月1日~10日作業旬報」「11月分事故状況報告書」「夜警守衛守則送付ニ関スル件」「疾病状況」「食糧給与状況」「労働従事許可願」などが綴じられています。その中の「第一中隊入山後ニ於ケル概況(昭和十九年十二月十八日)」に、上砂川に連行されてきた中国人の健康状態が詳しく出ています。

 

「当所へ入所せる隊員は石門(現・石家荘市)訓練生にして(1944年)九月二十九日第一、二班に分割、輸送され、計百五十二名到着し、重患者下関残留中五名の内二名死亡し、残り三名は十月四日当地へ到着せり」「華労着山せし時は、下痢患者甚だ多くして九月三十日身体検査状況左の通り。甲隊九十四名(軽下痢患、皮膚患多数含む) 乙隊二十七名(同) 丙隊十二名(下痢の為重患なるも歩行可なる者) 丁隊十九名(重患にして歩行困難なる者)」

さらに、隊員152名の80%は下痢患者で、ごく軽い患者でも1日8、9回の便通があり、ほとんどは栄養失調にかかっていたと書いています。

石門で検疫をおこない、「異常なし」と認められた人たちです。それが10日間の船旅で2人が死亡、重症患者も多く、上砂川に着いたのが10月4日です。当時の汽車の輸送状況では、下関を立って、大阪または東京で1泊して北海道に着いていますので、この隊が2、3日多くかかっています。下関で中国人をすぐに汽車に乗せることができないほどひどい健康状態になっていたのでしょう。どんな対応策を地崎組は下関で講じたのか明らかにしなければなりません。

 

「入山後ニ於ケル概況」は、北海道に到着して、重症患者を「直ちに空き宿舎の一部に『隔離』なし、クレゾール並びに石灰其の他を用ひ」て消毒し、注射、投薬、栄養剤などを用いて「万全を期した」としています。

それにもかかわらず、10月には18名、11月には10名が死亡しています。栄養失調症27名、急性肺炎1名などの重症患者にたいする治療は、ほとんど効果がなかったといえるでしょう。

地崎組は、入山後最初の2カ月は訓練期間として「簡易な労働」をさせ、生活や日本語の教育をおこなうとしていますので、過重労働による死亡ではなかったはずです。中国人たちが「万全の対策」をもってしても回復できないほど衰弱していたのか、「概況」がいう「万全の対策」に偽りがあるのか、どちらかということになるでしょう。