米ジュゴン訴訟報告会から

 名護市辺野古の基地建設がジュゴンに悪影響を与えるとして沖縄県民3人と日米の環境保護団体などが米国防総省を相手に工事の中止を求めた米ジュゴン訴訟で、サンフランシスコ連邦地裁は来年5月24日に審理を行うことが決定しています。現在は、5月のヒヤリングまでのディスカバリー期間で、情報公開制度を活用して情報をとる、裁判勝利に向けて全力で準備をする非常に重要な期間だといいます。そのなかで、自然保護団・米生物多様センター(CBD)が、辺野古や高江で現場を見、住民らと交流することで、裁判闘争の力にすることを目的に来日しました。12月2日、那覇市の自治会館で報告会を開きました。

 

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マイクを持っているのが真喜志好一さん 

 

以下、メモから
 【籠橋隆明弁護士のあいさつ】
 2003年に提訴し、10年以上たたかっている。辺野古新基地はアメリカが使うが、新基地建設をめぐる争いは、日本国民と日本の政府で、アメリカはどこにも出てこない。しかし、アメリカ政府も当事者だ。こう考えてアメリカで裁判をおこなうことを考えた。沖縄県内では那覇の弁護士たちが奮闘している。
 辺野古基地を建設しているのは日本政府であり、なぜ米国がさばけるのかと疑問に思っている人もいるだろう。日本国政府は、キャンプ・シュワブに造るには、米国の許可がいる。米国政府は、やるかどうかを決める権限を持っている。米国政府が基地建設をコントロールできる。そこに私たちは目を付けた。実際、基地建設の中身について、どんな基地がいいかも米国政府がすべて決めている。辺野古新基地建設を進めているのは日本政府だが、本当の主人公は米国政府だ。
文化財保護という法律がアメリカにある。その法律に、アメリカ政府は、世界の文化財を守る義務があるという条項がある。アメリカ政府には、日本の文化財を守る義務がある。ジュゴンは、日本では文化財保護法文化財として規定されている。だからアメリカ政府は、ジュゴンを守る義務がある。このアメリカの法律を、アメリカ政府が求めている辺野古新基地建設に適用させようとしている。
国防総省は、当初、ジュゴンは生き物だから文化財ではないと言っていた。しかし裁判所は生き物で会っても文化財であると言って国防総省の主張を退けた。そのうえで裁判所は、違法な状態であると判断している。サンフランシスコ連邦地裁で負けたのは、裁判官が代わったからだ。それが高等裁判所に行って、地裁判決が退けられた。アメリカの友人たち、アメリカの弁護士たちが奮闘して差し戻しになった。
 この裁判の意義がもう一つある。この裁判を通じて、アメリカの中に友人をつくることだ。今回、CBDメンバーを迎えることができたが、最も重要な到達点だ。これまでたくさんの成果を築いてきたが、それらすべて出し切って勝ちたい。沖縄の皆さんと一体感があって初めて勝てる裁判だ。連携を深め裁判を進めたい。


 【CBDの弁護士 Miyoko Sakashita】
 やんばるに行き、交流ができてよかった。辺野古でとても戦闘的にたたかっている若い女性が取った行動は、自分の土地に入れないのはどういう気持かということだった。大浦湾は、中に入れない制限地区で、ジュゴンに必要な海草がたくさんあるところだった。そこが破壊されようとしている。NHPA法(米文化財保護法)は、文化を保護して行こうという仕組みを持った法律です。その法律の根本部分には、米国政府は世界中の文化財を守るというものがあります。なぜ、この法律を適用させるのか。それは、米国でも適用できる数少ない法律だからです。NHPA法はアメリカの法律だが日本の法律を受け入れることができるからです。(日本の文化財法で守られる文化財があるなら守りましょうということ、というのが会場での和田重太弁護士の補足)
 CBDと日本が一緒にやっていくことが、この裁判の勝利のポイントです。私は、明るいものになるととらえている。それは、米国防総省が、工事がジュゴンに対して、生息地に影響を与えることはないというばかげたことを言っているからだ。大浦湾をまもること、そしてNHPA法を適用させる初めての取り組みとなっているということだ。
 NHPA法を適用させ、次のステップに向かい、最終的にはアメリカが基地建設を諦めるようにさせたい。護岸が造られようとしており、危機的状況に来ている。どのように協力し合って、たたかっていけるか、ぜひ、みなさんと話しあいたい。
ジュゴンにとってもオフリミットとされている海を開放させることが最終目的です。


【CBD Peter Galvin】
 訴訟とはソーシャルムーブメントとらえている。
 米国防総省の文書から、1966年から辺野古に基地をつくることを狙っていたことがわかった。米国政府が日本政府に対して基地が満たすべき項目が詳細に書かれている。ドアノブがどうでなければいけないかということまで書かれている。
米国政府は、地元の、影響を受ける人と直接話さない、東京と話すという態度です。この訴訟は初めて、裁判所によって米国政府が沖縄の人と一緒に座って、きちんとその目で確かめて、ジュゴンの飼育環境が壊されよとしているか確かめなさいという初めてのことです。実際にはうまくいっていない。どんなにひどいことが行われているか、米政府は直接、地元(沖縄)の人と話し合うというプロセスを避けようとしている、何が行われているか、暴露されることを恐れています。国防総省が初めて沖縄の人々と話し合わなければいけないプロセスが始まろうとしているのです。
辺野古基地建設の歴史を考えるときに、エイリアンとアバターを思い出す。同じシチュエーションだ。エイリアンは、地球を襲ってきて彼らをやっつけるのは困難だ。エイリアンとの戦いに負けるのは想像できないことだ。アバターは、私たちのケースに近いと思う。手にいれられない物質を手に入れようと行こうとする。その映画で見たようなことを大浦湾でみたように思う。アメリカムービーのいいところは、エンディングは正しい人たちが必ず勝つ。
 訴訟の中で、どのように展開されていくか。5月までは集中的にたたかっていかないといけない。オスプレイに対しても影響を与えるぐらいにどんどんやっていかなければならない。
 きょう会場にきている(先住民族の)マティさんは、スタンディングロックのたたかいをやった。世界中に知られることになった。辺野古についても政界中の人たちに何が起こっているのか、何が問題か知らせていきたい。
 1回目の訪日では、真喜志好一との出会いがあった。2回目は、やんばるの森を見た。やんばるの森は地球上でも重要な森の一つだ。そこにヘリパッドが造られている。ノグチゲラの生息地だ。ヘリパッドだけでも十分負荷がかかっている。おそらくオスプレイが追加され、大きな影響を受ける。騒音、振動がノグチゲラその他に影響を与えることははかりしれない。今回5回目の訪問で、ジュゴンを見ることができた。といっても博物館で、だ。生きていないものだったが、それでも感動した。次は6回目。それでも見れなければ、そのあと、ジュゴンが自由に沖縄の海を回遊している姿を見たい。


【吉川秀樹】
 サポーターとしてかかわっている。国防総省がやったという協議について話したい。二つある。国防総省自体が日本のとんでもないアセスを取りいれたことだ。2点目。国防総省は県教育委員会、名護市の教育委員会に行ったと書いて、いかにも沖縄で話し合っているように書いた。それを検証するために、県庁や名護博物館で来ていましたか、聞いていましたかと聞きました。「来てないはずよ、記憶もないし、記録もない」というのが答えでした。やはり、国防総省が沖縄の人と話し合うと、基地はつくれないことが分かる。
                     ◇
 同訴訟は、2003年9月に提訴。原告は、ジュゴンは日本の文化財保護法で天然記念物に指定されており、基地建設にあたって米国防総省は米文化財保護法(NHPA法)に基づき、ジュゴンの保護策を示すよう求めました。
 2015年2月、連邦地裁は、司法による政治介入を避ける「政治問題の法理」を理由に原告敗訴の判決を出しましたが、今年8月、サンフランシスコ連邦高裁は、「原告らは差し止めを請求する原告適格を有し、差し止め請求は政治問題ではない」との判断を示し、差し戻しを決定しました。

「たたかう民意」と総選挙(3)

 1区ではどうか。
 「比例(代表選挙)を軸に」ということが基本方針になっている共産党ですが、那覇市では比例選挙のことはほとんど言わず、「オール沖縄の赤嶺」と小選挙区に絞っていました。これで比例は共産党以外の政党(立憲民主党とか社民党とか)にと考えている人たちも無党派の人たち、保守のひとたちも「翁長知事を国会で支える候補者を」と、わが選挙のように思い、行動できる扉が開かれたのでしょう。県政与党の人たちだけでなく、辺野古に通う人も子育て中のママもマイクを持って応援したりしていました。歴史教科書に日本軍による強制集団死の叙述を求めて運動を長年続けているご高齢の方が、自宅のそばで毎朝、赤嶺がんばれとスタンディングをしておられましたが、こうした一人ひとりの市民が自覚的に選挙運動に加わった――これがラストスパートで相手候補を抜き去る力となったのでしょう。
 もちろん翁長雄志知事、城間幹子那覇市長、稲嶺進名護市長も連日、赤嶺候補の当選に駆け付け、街頭で声をからしました。知事と両市長が応援に立てば、赤嶺候補がまぎれもなくオール沖縄の候補であることが一目瞭然となりますから、大きな力になります。
稲嶺市長の応援を紹介しましょう。ある団地で応援に立ったとき、1枚の写真を取り出して、こう話しました。「この写真、覚えておられる方もあるでしょう。県外移設を掲げて当選した議員が、中央の圧力で公約を投げ捨てた。こういう人たちに沖縄の未来は託せない」。写真は、「平成の琉球処分」と呼ばれる2013年11月25日の自民党の石破幹事長の辺野古移設容認記者会見です。石破氏の後ろには沖縄県関係の5人の国会議員が座らされ、うなだれています。建白書を投げ捨て、辺野古容認に走った政治家を許すことはできないという、心の底からの怒りです。
 そういえば、昨年の参院選でも、自民党の候補者に写真をかざして、公約を破ったことを説明せよと迫る有権者がいたそうです。「島売りアイ子」と書いたTシャツを着て街を歩く人もいました。ある人曰く。「彼女は、真っ先に寝返った。沖縄担当相になれたのは、その論功行賞さ」
 シュワブゲート前に座り込んでいる人に話を聞くと、「家を出るのは朝5時すぎだが、4時には起きて準備する」といいます。これを週に3回、4回。すごいエネルギーです。機動隊の暴力的排除で、腕にあざができて痛くても座り込みをやめないといいます。平和への願いと怒りの蓄積が、政府の責任を問う選挙のときには、行動のベクトルに転換するのだと思います。
 4区の場合、あまり確かなことはいえないのですが、比例で奇跡的に復活した「策士」といわれる候補者の動きが報道されています。自民党候補との「票のバーター」です。こういうことがあってもそれを乗り越える選挙に、残念ながらできなかったということです。しかしそれにとどまらず、4区は全体的に自民党にリードされているという指摘も聞きました。 議席を奪い返すという自民党の執念に競り負ける部分があったということは、来年1月の名護市長選、11月の知事選にとって重要な教訓です。
 「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」。瀬長亀次郎さんの言葉です。全国の「友」の熱い支援を沖縄は待っています。

「たたかう民意」と総選挙(2)

 今回の衆院選で、沖縄では、辺野古新基地建設問題が最大の争点になりましたが、高江でのCH53Eの炎上もこれに重なりました。
 選挙のテコ入れで沖縄入りした岸田文雄政調会長は、急遽、日程を変更し、ヘリ炎上翌日に東村役場を訪れ、村長に自民党としても政府と一体となって事件に対応すると説明しました。沖縄の自民党は、これでは選挙にならないと危機感を強くもち、政調会長に東村に行ってもらうようにしたのだろうと思います。

 村長の隣に座った(岸田氏の側ではなく)比嘉なつみ3区候補は、岸田氏に涙ぐみながらこう訴えました。「私どもも自民党の人間でございますが、やむなく受け入れてみんながんばっているということをご理解いただいてしっかり対処していただきたい」


  高江では、6つの着陸帯の建設で、米軍の訓練が激増し、墜落の不安が大きく高まりました。にもかかわらず政府は、北部訓練場の過半の返還で沖縄の基地負担軽減とうそぶきつづけています。

 「ヘリパッドいらない住民の会」は、着陸帯完成後もあきらめず、運動を続けてきました。県議会も全会一致で着陸帯の使用禁止を決議し、東村議会も同じように決議しました。こうした住民の声、村や村議会の動きに対応しなければ、決定的に見放されてしまい、選挙にならない、自民党候補にそう思わせ、行動させるところまで追い詰めたといえるでしょう。翁長知事流に言えば、「たたかう民意」の勝利でしょう。

「たたかう民意」と総選挙(1)

 沖縄の今回の総選挙は、4つある小選挙区のうちオール沖縄は1-3区で勝利し、4区は接戦でしたが、自民に議席を奪われました。「オール沖縄の一角がくずれた」という見方が蔓延しているようです。表層だけ見ていると、そう見えるでしょう。しかし、もっと掘り下げて見ると、違った様相が見えるのではないでしょうか。
 公示前の大方のメディアの予想は、2区・3区はオール沖縄の候補、つまり照屋寛徳さんと玉城デニーさんですが、自民候補を圧倒しているが、1区・4区、赤嶺政賢さんと仲里利信さんは自民候補と激しく競り合っているというものでした(。自民候補がややリードと出た翌日の他紙にはオール沖縄の候補がやや優勢、さらにその翌日にはまた自民候補が先行、というように情勢分析が目まぐるしく変わりました。それが投票日まで続きました。1区は、ひょっとしたら投票箱が閉まる直前の数時間で勝敗が変わったかもしれません。
 2区・3区は、米軍基地が多く、爆音にさらされ、命を削られる思いで暮らしている地域です。照屋さん、デニーさんは個人人気も非常に高く、そのうえに繰り返される米軍の事件・事故…。
 浦添市うるま市市長選挙で、オール沖縄の候補が敗れたから、オール沖縄の力は弱まっているとさんざん、報道されました。その二つの市は、2区・3区にあります。この見方では、大差でオール沖縄の候補が勝ったことを十分に説明できません。多少の誤解を覚悟であえて言えば、両市のオール沖縄の候補が、辺野古新基地建設反対の旗を高く掲げて訴えたのかという点がありました。うるま市の候補者は、辺野古のゲート前にはよく来ていましたので辺野古新基地建設反対の姿勢ははっきりしていましたが、実際の演説では後景におしやられていて、これではオール沖縄の強み「建白書実現のためにみんなで力をあわせて政治を変える(沖縄県や名護市・那覇市の場合は、知事・市長を支える)」-これが発揮できないように思いました。角度を変えれば、辺野古新基地建設が大きな争点になる選挙では、オール沖縄が力を発揮するということになります。     

                                (つづく)

那覇市内の朝鮮人強制連行・強制労働跡を訪ねる(2)

 『恨 朝鮮人軍夫の沖縄戦』(海野福寿・権丙卓)P155をテキストに、強制連行された朝鮮人らの那覇市内での足跡(安里の練兵場、天妃国民学校、美栄橋の積徳女学校、那覇港、城岳)訪ねたことを8月21日のブログで書いた。その続きである。


 これらの場所を歩いて思うのは、決められたコースではあったろうが、およその地理は頭に入っていただろうということである。徐錫華が「飛行機が港と軍需倉庫を攻撃しているのを見て、市内が安全だと思って市内へ逃げたのです」という判断がそれを示していると思う。

 ただ残念なのは、このテキストが被連行者本人の記憶を生の形で記述するのではなく、その多くが、研究者の要約で書かれているということだ。以下、朝鮮人が体験した10・10空襲の叙述を引用するが、貴重な体験であろうから、聞き取りの記録が読みたいものである。

 テキストでは次のように書かれている。

 

 奴隷にひとしい労働の二カ月が過ぎた一〇月一〇日の朝、 点呼時間である。
 いつもどおりの点呼をしていた小隊長が、右手を額にかざして遠くの空を見やった。軍夫たちも同様に空を見上げた。すでに米軍の空襲が予想される状況にあり、 防空壕が掘られ、 防空演習も何回となく行なわれていたから敵機来襲ではないかと思う人がいるのも当然である。高い空に朝日を受けて キラキラ光る物体が見えた。みな息を殺して探りながら、「飛 行機だ」、「違う、星だ」などとささやき合っているうちに、その物体は消えてしまった。軍夫たちはざわめいた。爆音がしたという者、それは日本の飛行機だと主張する者もいた。
 次の瞬間、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。間もなく空をひっくり返すような轟音とともに山向うから梯団を組んだ艦載機が湧き出、秩序整然と迫ってきた。小隊長はあわてて「全員退避」と命令し、どこかへ消えた。隊員たちは四散した。話には聞いていたが、初めて体験する空襲なので動顛した彼らは、砂糖黍畑に飛びこんだり、木立の陰にかくれて成り行きを見ていた。
 米軍機が最初に攻撃したのは飛行場と那覇港だった。まず日本軍の邀撃態勢を挫いておく狙いだろう。高々度で旋回していた編隊から次々と目標に向って急降下し、爆撃や機銃掃射を加えて舞い上がっていく態勢の攻撃がくり返された。グラマン戦闘機に交じって両翼にプロペラを付けた爆撃機らしいのも目撃された。
 飛行場と那覇港からたちまち黒煙が上がった。港では弾薬を積んでいた船が攻撃されたらしく大爆発音とともに火柱が上がり、兵営内の弾薬庫もやられ火を噴き、激しい音をたてた。
 港湾施設も攻撃の対象となった。彼らが二カ月間ほとんど昼夜兼行作業で陸揚げし、運搬した物資を置いておいた米穀倉庫、油槽も火に包まれた。油槽から上がった火柱が天を突き刺し、その中でドラム缶が爆ぜ、地底を揺るがせた。
 攻撃は一時間ほどつづいた後一時間ほど中断し、また再開するという形で数回くり返された。その間、わがもの顔に飛び交う米軍機に対する日本軍の邀撃はまるで頼りにならなか った。ときどき発射される高射砲は命中しない。軍夫たちがあれほど苦労して砲を担ぎ上げた高射砲陣地も、何発か発射しただけで、逆に艦載機の集中攻撃を受けた後は沈黙してしまった。期待した空中戦を挑む日本軍の飛行機も現われない。勇猛果敢と豪語した航空隊はどこへ行ってしまったのか。
 艦載機群が空に吸いこまれるように消え去りひと息ついた午後からは、攻撃目標が那覇市街に転じた。戦爆連合の大編隊で飛来した米軍機は密集した市街地を無差別に爆撃した。大型機は、遠くから見ると筆箱のような形の物を投下した。筆箱は地上に落下した途端、爆発しながら恐ろしい火を吐き出し、炎があたりを包んでしまうのである。後で分ったことだが、それが焼夷弾だった。
 まともな訓練を受けたことのない那覇市民はただ逃げまどうばかりだったが、日本軍もちりぢりになり、応戦も、防火も放棄したようだった。
 第二波攻撃の潮が引いた頃合を見はからって、気もそぞろに市内中央通りに逃げた徐錫華は、市内の混乱をつぎのように語っている。
 「飛行機が港と軍需倉庫を攻撃しているのを見て、市内が安全だと思って市内へ逃げたのです。中央通りは行き先もきめずに逃げまどう男女老少でいっぱいでした。みな右往左往して悲鳴をあげているのです。そんな群衆の中へ、一〇人あまりの兵隊が、二頭の馬に牽かせた砲車とともに飛びこんできたのです。爆撃で興奮した馬は猛々しくなっているし、兵隊たちも頭が混乱して無茶苦茶に馬を追い立てるのです。馬蹄で蹴られて叫ぶ人、砲車に轢かれた女の人、つまずいて転ぶ人、大変な騒ぎになりました。その時、三度目の空襲があったのです。今度は無差別攻撃で、私は橋の下が安全だと判断して、いも畑や黍畑を抜けて橋の下に飛び込んだのです。そこでは、沖縄の人や兵隊が茫然として火の海になった那覇の町並 みを見ていました」

 

 もう1点、気になるのが、朝鮮人は、那覇港に入港した後、なぜ、練兵場に連れていかれたのかという点である。荷役は翌日からであり、この日は、特に作業はなかった。おそらく訓話があったのではないか。

 「軍夫」であるから朝鮮半島で入隊させられたときに軍の教育(行進や、大東亜精神などの訓話)は受けさせられたであろうが、日本でも改めて行ったはずである。
 中国人強制連行の場合、「中華報国隊」などとして中国人を隊編成した。労働現場ではまず「入村式」をおこない、中国人の隊長と日本の軍人が講和を行っている。あくまでも敵国の人々であるが、表面上は「帰順」した集団として扱っている。「一視同仁」の朝鮮人とはいえ、国防保安法の対象であったろうから、それ相応の監視下に置くし、精神的な指導も手を抜かなかったであろう。


 「軍夫」問題の研究の歴史は、これからひもとかなくてはならないが、こうしたこともすでに解明されているのだろうか。

沖縄での朝鮮人強制連行 1972年の「第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団」報告書を読む

 「沖縄の日本復帰を契機として、かつて沖縄戦に強制連行された朝鮮人にたいする虐待、虐殺の実態と真相を調査」する目的で、日本の弁護士3人、評論家1人、在日本朝鮮人総連合会4人の構成で「第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団」が結成され、1972年8月15日から9月6日まで3週間にわたって沖縄で調査が行われた。
 団長は、日本弁護士連合会人権擁護委員長の尾崎陞氏で、調査にあたっての記者会見で同氏は、「最近になって日本軍による大量虐殺が沖縄で行われたことが明らかになったが、戦争中、強制連行された数万の朝鮮人がどのような運命をたどったかその事実を調査したい。多くの朝鮮人が本土防衛の名のもとに過酷な労働に従事させられ、虐殺され、死んでいったが、これまで明らかになったものでは久米島の谷川登さん(朝鮮人)虐殺、西表炭鉱のたこ部屋での虐殺、渡嘉敷島での惨殺などがある。こうしたことを再び起こさないためにも十分事実を調査する必要がある」と述べている。
 県史編纂室、那覇市史編集室などの協力を得て資料を収集したのち、3班に分かれて沖縄本島をはじめ宮古八重山、西表、久米島、座間味、渡嘉敷、伊江島などで現地調査を行った。調査結果は「第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書」として小冊子にまとめた。
 調査に協力した沖縄県内の団体は、復帰協、県労協、沖縄人権協会、革新共闘弁護団、沖教組、沖縄平和委員会、自治労などであった。

 どのような調査結果がえられたのか、報告書を見てみよう。まず、座間味島では、どうであったか。

 

 ここ(座間味島)に送られた朝鮮人数は、『公式記録』としては、特設水上勤務第一〇三中隊(第二、第三小隊〔一分隊欠〕欠(ママ)の約三〇〇名である。
*「作業援助要員として二月中旬沖縄本島から・・来島」(『沖縄方面陸軍作戦』)
*壕を掘りおわったあと、軍は、一九四五年二月一六日に本島に移動した。そのあと市川中尉を隊長とする水勤隊が入って来た。二〇〇~三〇〇名だったと思う。座間味国民学校に特幹隊と入れかわりに入った。(宮城初枝氏)
 朝鮮人「軍夫」たちは食糧もろくに与えられず「特攻艇」の壕掘り、陣地構築、弾薬、食糧運搬、荷役などに朝早くから日が暮れるまで一日中、酷使された。
*かれらには「はんごう」一杯の食糧が一日三人分の食糧として与えられただけで労働は激しく、ひどい状態だった。一〇〇艇ほどの艇(特攻艇のこと)をかくす壕ほり、壕の支柱にする木材の切り出し、弾薬倉庫の建設、荷役、そのほか特技のある人たちは軍靴の修理、被服のつくろいなどに使われていた。伐材は、朝早くから日が暮れるまで一日中やっていた。切り出した坑木は山から座間味のうらの浜まで一時間もかかる急こうばいの道を運ばされた。壕掘りでは、ダイナマイトの事故で死んだ人もいたし、落盤事故もあった。(宮城初枝、高良一夫、島袋栄次郎、大城スミエ氏らの話)
 米軍上陸後、日本軍は朝鮮人をほうり出した。
 「軍夫」たちは、わずかではあったが得ていた軍の食糧もえられなくなった。地理もわからぬところで、恐ろしい飢餓状態におちいったのは当然である。
 かれらはやむをえず食糧を求めて浜へむかった。そして射殺された。
*米軍上陸当時、日本兵一人と朝鮮人一人が阿佐部落の海岸へ食糧をさがしに出て米軍に射たれた。(高良、島袋氏)
 日本軍は、このように朝鮮人をやっかいもの扱いにして投げだしただけでなく、自らも、かれらに死を強要し、あるいは直接手を下して殺害した。
*阿佐の浜では日本兵に軍夫一名が斬殺された。(当時防衛隊のある青年が目撃) その他、日本軍が夜中に軍夫を殺して埋めたというウワサもある。
*戦後五~六年ごろに座間味国民学校の工事場で、白骨死体二体が発見されたという。  ここには、戦時中、朝鮮人軍夫が入っていたが、米軍の爆撃をうけた。また米軍上陸後は米兵の死体埋葬地になっていたが、朝鮮人「軍夫」が使われていた。米軍が引きあげるとき米兵の死体は一体ずつ確認してすべてもち去ったから白骨は米兵のものでないことは確かだ。(宮里氏-教員)
*一時期、ここにも「収容所」があった。座間味島阿嘉島日本兵それに朝鮮人たちが収容されていた。(これに関しては阿嘉島の部分で述べる)
ここにも、いわゆる「慰安婦」として朝鮮女性七名が一九四五年一月ごろに連れてこられて死んでいる。他のばあいと同様に、かの女らのその後のことは不明である。
*エイコ、コナミ、ミエコ、池上トミヨなどの七名である。うち一名が死亡。一九四五年三月二六日ごろ森井中尉と同じ場所で死んでいた。エイコである。銃弾による死亡といわれている。(宮城氏)
                (以上、引用終わり)
 「朝鮮女性七名が一九四五年一月ごろに連れてこられて死んでいる」という記述は、「一名が死んでいる」とすべきところであろう。「米軍上陸当時、日本兵一人と朝鮮人一人が阿佐部落の海岸へ食糧をさがしに出て米軍に射たれた」という証言は、「朝鮮人をやっかいもの扱いにして投げだしただけでなく、自らも、かれらに死を強要し」たとする総括と相反するのではないか、などの疑問を感じる箇所もある。
 調査団が沖縄で調査活動をしている期間に、安仁屋政昭氏の「沖縄戦に連行された朝鮮人」という記事が掲載された(1972年8月31日、9月1日付)。当時、沖縄の歴史研究者が沖縄における朝鮮人強制連行をどのように把握していたか、参考になろう。

 

 慶良間列島では、渡嘉敷島に二百十人、座間味島に約三百人、阿嘉島慶留間島に合計約三百五十人の朝鮮人軍夫が配属されていたということは、防衛庁の記録にも出ている。
 この数字は、米軍上陸直前(昭和二十年三月)のものであり陣地構築の最中には座間味島だけでも、約八百人配属されていたといわれ、その大半は那覇へ引きあげたらしいという。この軍夫たちは戦闘中、どのような待遇をうけただろうか。座間味島の場合をみてみましょう。住民の証言によると、牛馬のように扱われたわけではないが、食料も十分でない上に、暗にスパイの疑いをかけるような扱いで、戦闘中(昭和二十年三月下旬から四月上旬)は砲弾運びをさせられていたということである。砲弾運びは島の女子青年までも動員して行われたので、朝鮮人軍夫だけがことさら危険にさらされたわけではないという。この島では三月二十八日から数日にわたって集団自決が行われ、軍人の死者三百七十六人を上回る三百七十九人の住民の犠牲を出した。三百七十九人のうち三百五十八人が自決による死者であることからみても、このすさまじさが分かる。ところでこの凄惨な悲劇のさなかに、朝鮮人軍夫の十数人が住民とともに自決して果てたということである。そのときの状況や心情は知るすべもないが、慶良間列島は十重二十重に軍艦で取り囲まれ、空と海から砲弾の雨をたたきこまれて、島の人びとが絶望した状況はよく分かる。座間味島を制圧した米軍はその後、座間味部落に病院を置き、遠く伊江島渡嘉敷島での負傷者を運び込み治療にあたったようだ。この負傷者の中にも朝鮮人軍夫がかなりいたようだが、この病院でノドに米粒をつまらせて息絶えた軍夫を目撃した証人もいる。
 座間味島の阿真部落には慰安所が置かれていて女将の池山トミヨ以下七人の慰安婦がいたことが確認されている。すべて朝鮮の婦人であったという。そのうち一人は戦闘中に森井少尉と自決し、六人は戦後ひきあげたということだがその後の消息は不明である。この島における軍夫の死者は百五十といわれるが、確証がない。
                         (以上、引用終わり)

 

 「朝鮮人軍夫だけがことさら危険にさらされたわけではないという」とする住民の証言について、安仁屋氏はおそらく「差別はなかった」と判断されているのではなく、朝鮮人に加えられた虐待をただちに朝鮮人差別と断定することに慎重な態度で臨まれているのであろう。「朝鮮人軍夫の十数人が住民とともに自決して果てたということである。そのときの状況や心情は知るすべもないが、慶良間列島は十重二十重に軍艦で取り囲まれ、空と海から砲弾の雨をたたきこまれて、島の人びとが絶望した状況はよく分かる」という慎重な考察からも氏のスタンスがにじみ出ているように思う。

 

 次に石垣島での調査団報告を見よう。

 

(イ)飛行場建設、拡張工事について
 石垣島における飛行場建設、拡張工事は、平得(建設)、 へーギナ(拡張)において一九四三年八月頃から 一九四四年五月頃までの間に行われ、この工事には朝鮮人および徴用による地元民多数が動員された。
 工事は、当時もっぱら海軍関係の工事を請負っていた原田組が請負い、その下請の管組の下に朝鮮人労務者が多数連れて来られた。その人数は、当初二〇〇人位であったのが増員され、最盛期には六〇〇人以上が動員された。
*原田組事務員であった識名朝永氏の証言による。
工事に動員された朝鮮人労務者の実態は、ダイナマイト使用による岩盤の破砕、破砕した岩石の運搬であったため、怪我人が多く、牧志医院の一〇畳位の病室には手、目に大怪我をした多数の朝鮮人労務者がいた。
*中山忠享氏の証言による。
*死傷者も多数いたと思われるが、組長管朝吉名義により、三度の火傷による死亡届が出されているだけである。
 地元の住民は朝鮮人労務者がダイナマイト技術をもっていたと考えていたようであるが、これが事実に相違することはこの多数の怪我人の発生をみても明らかである。
 朝鮮人労務者は、平得飛行場近くに造られた屋根、壁ともにかや葺の、特別の宿舎に入れられていた。食糧が不足していたので、地元の人たちにとうがらしやさつまいもをもらいに来ていた。
*当初、原田組が平得に来る直前頃には、「朝鮮人乱暴だから婦女子は夜間外出をしないように」という注意が流されていて、地元の人たちは警戒心を強めていたらしいが、とうがらしや、いもをもらいに来たかれらの態度が意外に丁寧だったので驚いたという。
(ロ)特攻艇隠ぺい用壕掘りについて
 原田組の朝鮮人労務者約四〇人は、川平湾の特攻艇(体当り用自爆ボート)隠ぺい壕掘り工事もしたが、この工事における役割も飛行場建設同様、ダイナマイトによる岩石の爆破作業と破砕された岩石の運搬で、かなり危険な労務であった。 朝鮮人労務者は、空地にかや葺の仮小屋を造って住み、付近の民家から徴発された食糧を食べていた。これらの朝鮮人労務 は濠掘りが終り、軍が入ってきたときにはすでにいなかった。
*地元住民たちの証言による。なお、宮良湾にも川平湾同様、原田組の朝鮮人労務者がダイナマイトを使って造った特攻艇用隠蔽壕がある。
(ハ)民間の壕掘りに ついて
 日本軍は大兵村の戸籍簿など非常持出用書類を入れる防空壕や「御真影」を入れる壕造りも、ダイナマイトを用いて原田組の朝鮮人労務者にやらせた。これに動員された人数は五〇~六〇名である。
*なお原田組は一九四四年五月の工事終了後、石垣島を引き揚げるとき台湾に向かうといったというが、その後の消息はわからない。
(ニ)軍の輸送について
 宮古島から連れて来られた一個小隊と思われる五〇~六〇人の「水勤隊」(暁部隊と呼ばれた)は、石垣島の真地原に兵舎作りを三班に分かれて、それぞれ班長に引率されて作業に出掛けていたが、作業は主として夜行われていた。もっぱら武器、弾薬、 糧秣などの軍の輸送に従事していた。しかし一九四四年十一月頃、石垣島に上陸し、翌年になって戦局が悪化し輸送が途絶えてからは、兵隊用の壕掘りをした。
 石垣島については、旅団命令により、開戦時より終戦時までの役所の戦時記録が一切焼却されてしまい、確定的な人数、生死者の数など明確ではないので、今後も調査継続の必要を感ずる。
(ホ)陣地構築について
 石垣島の開南と名蔵辺りに陸軍は陣地を構築しているが、これには西表島の炭坑夫までも徴用し、地元民と共に働かせた。
 軍から炭鉱主のところには資金として一日四円が支給されていたにもかかわらず、炭鉱主から坑夫達には一円二〇銭しか交付されなかったとのことである。
石垣市の厚生園(養老院)に収容されている大井兼男氏の証言による。
*この坑夫たちの中に戦前から坑夫として雇われていた朝鮮人も含まれていたことはたしかだが、その人数は明らかではない。また原田組の朝鮮人労務者がこの陣地構築に参加したかどうかも明らかではない。
 住民の証言などを総合すれば石垣島には七〇〇人以上の朝鮮人が連れてこられたものと推定されるのだが、その強制労働、死傷の実態は明らかではない。
                          (以上、引用終わり)

 

 この石垣島の報告で注目したいのは、いわゆる「軍夫」だけではなく、それ以前に、企業によって労働に従事した朝鮮人が相当数いたということである。組長管朝吉名義の死亡届に報告書は言及しているので、そのなくなった人は、「民間人」であり、「軍夫」ではなかったはずである。賃金がいいからなどと騙されてきた人たちも多かったのではなかろうか。こうしたことは、全国の朝鮮人強制労働の現場であったし、それゆえ、逃亡なども頻発した。この民間企業による強制労働の実態を明らかにすることは、「軍夫」の解明と合わせて不可欠の課題であろう。その出発点をこの報告は、突き出している。

 

那覇市内の朝鮮人強制連行・強制労働跡を訪ねる

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写真は、現在の那覇埠頭。朝鮮半島から連行されてきた「軍夫」はここで港湾荷役をさせられたのだろうか。

 

『恨 朝鮮人軍夫の沖縄戦』(海野福寿・権丙卓)P155をテキストに、朝鮮人が強制労働をさせられた那覇市内の場所を訪ねてみた。あくまで推定で、厳密に確定して歩いたわけではない。

 

那覇へ連行された軍夫たちが属した特設水上勤務第一〇三中隊、通称球八八八六水勤隊は、港湾荷役など雑役作業に使役される、武器を持たない軍属隊である。
着いた翌日から那覇埠頭の荷役作業が始まったが、宿舎は野営した練兵場①から市内の天妃(てんぴ)国民学校②へ、さらに「家政女学校」と呼ばれていた積徳女学校③へ移った。>

 

① 松川か? 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)を行うにあたり、沖縄に派遣された熊本鎮台沖縄分遣隊は、1890年(明治23)2月に、安里村(あさとむら)(現大道(だいどう)・松川(まつがわ)一帯)の畑地17,580坪余を取得し、練兵場(れんぺいじょう)・射的場(しゃてきじょう)用地とした。
② 現在も天妃小学校・幼稚園があるが、同じ場所か?
③ 積徳高等女学校慰霊之碑は、同校発祥の那覇市松山の大典寺境内に建立されているが、同境内の説明板によれば、大典寺内に建てたのは寮で、校舎は美栄橋の東横インそばを流れるガーブ川沿いにあったという。そのあたりを歩いたが、校舎の遺構のようなものは見当たらなかった。美栄橋から港まで歩いておよそ1時間弱。1日10時間以上の重労働を終えての帰りは、きつかっただろう。

 

<朝五時、起床ラッパで飛び起き、大急ぎで寝床を整理して班別点呼。朝食。
炊事当番が炊いた飯は、米麦半々、沖縄産のいもも入っていた。米は安南米のようで、まったくねばり気はなく、古米のため真黒に見えるほど虫が付着していた。それも腹一杯食べられるわけではなく、班別に割当てられた釜の飯を飯盆に分け、飯盆の蓋くらいしかない飯を三人で食べるのだから、いつも満腹になることはなかった。
朝食後、運動場に集合。分隊別、小隊別に整列して点呼。その日の作業の指示を受ける。那覇港④へ行き、船の荷物を艀(はしけ)に積みかえる仕事、艀から陸揚げして兵営、施設、倉庫などへ運ぶ仕事等々。
時には、肩に担いで運ぶこともあったが、ふつう陸上では鉄の車輸のついた運搬車に荷物を積んで四、五人で押したり牽いたりした。でこぼこな下り坂で、重い荷物を山と積んだ運搬車を牽くことは容易なことではない。>

 

④ 通堂町だろうが、正確な場所は不明

 

<沈在彦(安心面淑泉洞)は回顧する。
「埠頭に陸揚げされている大砲を、高い山⑤の上にあげるというのに、まったく原始的な方法しかなかったのです。大砲は底車もない鉄の塊です。太い丸太棒を道に敷き、その上に大砲を載せて押し上げるのです。山の上まで上げるのに何週間もかかりました。
食べ物がないのに、どうしてあんなに汗が出るのか。夕立をまともに浴びたように肌にぴったりくっついた服を着た同僚のみすぼらしい恰好は、まともに目を当てられないほど悲惨でしたよ。セメント袋を担いだ時なんかは汗でぐしゃぐしゃになったセメントが服に染みて、後で鎧のように固まっちゃって」>

 

⑤ 高い山といえば城岳になるのだろうか? 1945年(昭和20年)の沖縄戦中は、山部隊の那覇守備隊陣地壕として使われ、5月には城岳周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。同地は、公園になっていて、1990年に奥武山公園から移設された「二中健児の塔」が建っているが、砲台跡などはない。

 

<崔瀚北、兪世鎮(押梁面夫迪洞)らの証言-。
「あの時、一番辛かったのは、あまりにも重い物を運ぶことと、ひもじさに耐えることでした。昼飯時に飯金に三分の一ぐらい入った冷飯を三人で分けて食べるのですからとても足りません。だから、前もって一人分ずつに分けておいて、めいめいが自分の分を食べたりしました。みんな自分の分の弁当に水を入れて日向に置いておくのです。すると、思一飯までに飯粒がふやけて飯盆いっぱいになって、一時的にせよ満腹感が味わえる、という小細工をしたものでした」
われわれは、彼らがどれほど飢えに苦しみ、耐えたかを推察することができる。「現地でもっとも辛かったことは何か。一番楽しかったことは何か」という問いに、大部分の応答者は、一番辛かったことはひもじかったことと過度の労働だといっている。楽しかったことなど何もない、とほとんどの人はいうが、鄭哲模(チョンチョルモ)(珍良面仁安洞)は、武器弾薬を運搬する時は辛かったが、食料品を運搬する時は楽しかった、という。また)金大根(キムデグン)(龍城面道徳洞)は、弾薬の運搬など手に余る仕事が一番辛かったが、食事の時は楽しかったと答えている。あの粗末で、少ない飯が、である。
Tという同僚は、食糧運搬作業中、包装の破れ目から缶詰一個を取り、隠し(ポケット)にしまおうとした時、発見された。彼はその場でひどい「気合」を受けたが、「気合」は幕舎に帰ってからもつづいた。>

 

那覇市史をしっかり読み込むか、郷土史研究者の協力を得るかしなければ、朝鮮人の強制労働現場を特定することはできないかもしれない。